1.インザーギという一つの時代の終わり

フィリッポ・インザーギが、今シーズンでACミランを退団することが、サッカー好きの間で、大きなニュースになっている。デル・ピエーロ、ガットゥーゾ、ネスタ——90年代から00年代のセリエAを象徴するサッカー選手が、今シーズンに揃って所属するクラブから退団することは、一つの時代の終わりを感じさせる。ぼく自身も、青春時代のヒーローだったインザーギが引退することに、少なからずノスタルジックな気持ちにもなった。

インザーギは、紛れもなく世界で最高のFWだ。それには、もう議論の余地などないだろう。何よりも彼のゴール数が証明しているし、あのイスタンブールの悲劇から、二年後の06−07で魅せたビッグイヤーを決めた2ゴールは、世界中に感動をもたらした。マンチェスターUの老将アレックス・ファーガソンは、彼のことを「オフサイドラインで生まれた男」と称した

もちろん、まだ彼のサッカー人生は続くが、今の時点でも、間違いなく彼はサッカー史上のレジェンドに数えられる選手だ。彼のプレーは世代を超えて語り継がれるだろう。

 

 

だが、インザーギという選手について、ぼくにはずっと疑問だったことが、一つある。

彼の身長・体重は、181センチ、74キロ。日本人から見れば恵まれた体格とも言えるが、世界のサッカー選手では標準的な体格である。脚は、全盛期でも特別早いわけではなかった。テクニックは、あくまでも標準的で、パスセンスがあるわけでもない。個人の能力だけを見れば、インザーギは凡庸な選手と言ってもいいだろう。

インザーギのプレーを見るために、インザーギのゴール集を動画で見てみよう。


ただ、裏のスペースに飛び込み、ワンタッチかツータッチで、ゴールに蹴り込む。あるいは、クロスに対して、ヘッドで合わせる。何故かベストゴール集なのに、ゴールキーパーのこぼしたボールをただ押しこむだけといったようなものもある。それらは、サッカーで一番よく見られるタイプの得点でしかない。クリスティアーノ・ロナウドのような無回転フリーキックもなければ、ドログバのように豪快なシュートも、メッシのように一人で何人も抜いて、GKの脇を抜くスーペルなゴールはない。

爆撃機ことゲルト・ミュラーは、「彼がしている事の全てはゴールを決めることだ」 と述べた。FWにとって、重要なのは、なによりゴールの数なのだから、これは最高の賛辞とも言える。一方、現代サッカーにおいて、インザーギのような一つの「役割」をこなすだけのFWは、もう用済みだという意見もまた根強い。「彼はオフサイドラインとだけ勝負をしていて、サッカーをしていない」と言う人もいる。現代の理想のFW像は、点を取ることは、最低条件で、前線からの守備も、攻撃の楔も、味方を活かすためのフリーランニングも求められる。そういう意味では、彼は「サッカーをしていない」と言えなくもない。

だが、そんな時代にあっても、彼はサポーターから、「スーペル(イタリア語で「超越的な」という意味。スーパー)ピッポ」と呼ばれる。一見、能力的には、ごく普通の選手にしか見えないインザーギが、スーペルピッポと呼ばれるのは、なぜなのだろうか。これこそが、ぼくの長年考えてきた疑問である。

 

2.バルサ的なサッカーとセリエA的なサッカー

そのためには、インザーギを生んだセリエAと、ここ最近のサッカーを席巻してきたバルセロナのサッカーついて考える必要がある。

バルセロナ的なサッカーとは、簡単に言えば、短くパスを繋ぎ、ボールポゼッションを高め、目まぐるしくポジションを入れ替え、相手の守備に「ズレ」を生み出し、そこをつくスタイルだと言える。つまり、ゴールという目的へ至るために、多くのパスが存在している。バルセロナのサッカーは、そのゴールの「奇跡」よりもそこへの「軌跡」であるパスに重きを置いている

それに対して、セリエAのサッカーには「1-0」の哲学がある。要するに、一点を守りきって勝つ美学だ。当然、ゴールは、あまり入らない。すると、一点のゴールへの価値が他に比べて相対的に高くなる。他のリーグのFWが、チームへの献身的な貢献が求められる中で、セリエAのFWは明確にゴールの数が求められるのは、そうした理由も存在している。

 

 実際、イタリアでは「ゴールを決めてくれるなら他のことには目をつぶってもいい」という監督もまったく珍しくない。ストライカーに守備をさせたり、中盤まで戻らせると、フィニッシュの局面でのキレを失ってゴールが決まらないので、あまり仕事をさせないほうがいい、というのも、よく耳にする話である。

(片野道郎『モウリーニョの流儀』113頁)

 

一部のファンの間では、バルセロナ的なサッカーこそが至高だという意見もあるようだ。だが、バルセロナ的なサッカーは最高のサッカーの一つではあっても、サッカーの究極ではないと思う

確かに、バルサのような圧倒的なポゼッションサッカーで、華麗なパスワークを魅せることも一つのサッカーである。一方で、イタリアのサッカー(カテナチオ)のように、ただ一点のゴールを奪いとり、それを堅固なディフェンスで守り切る美学もある。そんなセリエAで、インザーギというFWは生まれてきたのである。

 

3.「ゴールへの快楽を延期する装置」としてのサッカー史

だが一方で、ぼくの考えでは、セリエA的なサッカーとバルセロナ的なサッカーは、実はコインの裏表でしかない。それらは、ともにサッカーの本質である「ゴールへの快楽の延期」を、別々の方法で遂行しているだけだと思うのだ。

と言っても、読者は「いきなり何を言ってるんだろう?」と思うだけかも知れない。サッカーの歴史をひもとくことで、その意味を理解してもらおうと思う。

 

昔、<サッカー>は、一つのお祭りだった。サッカーとラグビーがまだ、二つになっていなかったころ、イギリスでは、マス・フットボールとそれは呼ばれていた。

一つのボールを二つのチームが追いかける。それは、今のサッカーと変わらない。だけど、ルールも、形態も、バラバラだった。その<サッカー>は、プレイする場所も、時間も、人数も決まっていなかった。だから、街全体で、何千人も一緒にサッカーをすることもあった。足ではなく、手でボールは運ばれていた。今のラグビーと同様に。図のように団子状態となるので、暴力事件もかなり頻繁に起った。今で言えば、球技というより、格闘技といった方が正しいだろう。そして、何よりも重要なのは、ゴールを決めれば、<サッカー>が終ったということだ。

つまり、ゴールは祭の終わりだった。

だが、ゴールを決めるとサッカーが終わるので、なかなかゴールを決めなかった。だから、<サッカー>は何日も続いた。王や諸侯が禁止しても、みんなは、ボールを蹴り続けた……。サッカーは、元々一点を決める「一点先取」のお祭りだった。日本で言えば、神輿みたいなものだったのだ。これが近代になると「祭りからスポーツ」へと変わり、統一ルールが制定され、点数が複数点になり、時間制限が生まれた。

 

 

その中で生まれてきたのが、オフサイドというルールである。サッカーで最も熱狂的なシーンは、ゴールの瞬間だ。ゴールのエクスタシーこそが、サッカーの魅力の源泉といってもいいだろう。文字どおりサッカーの目的は、ゴールなのだ。だが、簡単にゴールが入ってしまうと、その感動は、減退してしまう。一方、全くゴールが入らないと、全然楽しくない。だから、昔の人たちは考えた。「なんとかして、ちょうどいい具合に、ゴールすることはできないか」と。それが、オフサイドというルールだった。

オフサイドはなぜ反則か (平凡社ライブラリー)

一言で言えば、オフサイドは「ゴールのエクスタシー」を高めるために生まれたのだ。オフサイドがあれば、ゴールはなかなか入らなくなる。ゴールを入れることが、難しいからこそ入ったときのエクスタシーが、大きくなる。ただ、それだけの理由だが、それが一番重要なポイントなのだ。オフサイドとは、ゴールの感動を大きくするためにこそ、ある。

別の視点で見れば、オフサイドというルールは、要するにゴールに対する欲望を抑制する装置とも言える。前へ前へと向かうプレイヤーを、オフサイドラインによって、行き過ぎないように制限する。そうすることで、一回一回のゴールの価値を高めることに成功したのだ。勉強は嫌だが、テストでいい点をとったときにそれは帳消しになる。あの感覚だ。

オフサイドについては、もう少し語りたい気持ちもあるが、字数の制限上それもできないようだ。参考文献を挙げるだけにしておく。

 

性愛と資本主義

 

 

 

さて、このような「ゴールへの快楽を延期する装置」としてのサッカー史、という視座から再びバルサのサッカーを見てみよう。

一般に、バルセロナのサッカーは、バックパスが多いと言われる。それは、単純に前へ前へと向かうだけでは、ボールポゼッションが出来ないからだ。だから、バルセロナのサッカーは、二歩進んで一歩下がるだけではなく、必要ならば、二歩も三歩も下がって、相手の隙をうかがう。つまり、それは、ゴールへ向かう欲望を自制しているのだ。

つまり、セリエAには一点を守り切るという「哲学」、バルセロナには無理をして前へ蹴らずに繋ぐ「哲学」、がそれぞれ存在している。それらは、別々の回路で、ゴールへのエクスタシーを高める方法であり、そこに優劣はつけがたい。どちらが好みかという問題で、そこは、趣味の領域だとぼくは考える。「アンチフットボール」は、存在しないのだ。

ちなみに、こうした「宗教戦争」は、サッカー好きの間で、ずっと行われてきたことだ。ここ数年は、相対的にバルセロナ的なポゼッションサッカーが優勢だった。だが、それは、90年代後半から00年代前半のサッカーバブルが崩壊、さらにはカルチョポリ(八百長騒ぎ)によってセリエAのチームが軒並み弱体化していた結果だったとも考えられるのではないだろうか。事実、今期バルセロナを苦しめたチーム、破ったチームは、セリエA的なサッカーをするチームだった。セリエAが復活してくる10年代も、ポゼッションサッカーとカウンターサッカーの二つが覇権を争う時代になるだろうと、ぼくは、予測している。

 

4.This is not the Soccer, but a soccer.

話をインザーギに戻そう。冒頭でぼくは、かつてゲルト・ミュラーが「彼がしている事の全てはゴールを決めることだ」 と述べたことを書いた。そして、それは、よく見られるインザーギへの批判である「彼はサッカーをしていない」と同型である、とも。サッカーが、単なるボールを扱うテクニックやパワーを競うスポーツだったらその批判は正当だ。しかし、前述の通り、サッカーはそもそも一点のゴールを奪うことが目的のスポーツなのである。

確かに、現代サッカーでは、インザーギのようにただゴールを決めるだけのフォワードは少なくなってきている。ストライカーは、ゴールを決められるのは、前提であり、守備もして、味方を活かす動きが求められる。だが、それでもインザーギという選手がここまで世界中で愛されているのは、ただ貪欲に、何回オフサイドをとられても、愚直とも言っていいほど、前へと向かうその姿勢だったのではないか。だから、チームメイトも彼を信じてパスを出せた。彼は、誰よりも自分の「役割」を知っていた。

だから、ぼくは「インザーギは、パスを繋ぐサッカーをしないことで、誰よりもゴールに近い場所で、サッカーをしている」と言いたい。彼は、この時代にゴールを決めるという「役割」を与えられ、その自らの「役割」を誰よりも信じてきた。だからこそ、サッカーの神は、ぼくたちは、彼を愛さざるをえない。それが現代サッカーの通念からいくらずれていようとも。

ぼくは、先に「決して、能力的には、スーペルなプレイヤーではないインザーギが、スーペルピッポと呼ばれるのは、何故か」という問いを立てた。オフサイドというルール=罰は、人をゴールという神の恩恵から、遠ざけたと言える。だが、それでもインザーギは、そこに近づこうとしたのである。普通の選手が考えるオフサイドラインよりも、一メートル先に彼のオフサイドラインはある。誰よりもゴールに近い場所に彼はいる。

いつも、ゴールに誰よりも近い、近い場所にインザーギがいた。愚直と言ってもいいほど、ただ一つのゴールだけを追い求めていた。それも一つのサッカーだ。そして、それが、セリエAのサッカーだ。そこには、美学がある。哲学がある。神学がある。だからこそ、スーペル(超越的な=神)ピッポなのだ。.

 

ロスタイム

2012年5月13日ノヴァーラ戦。インザーギは、ミランでの自身の最後の試合を、自らのゴールで飾った。オフサイドラインから飛び出した彼は、セードルフからの柔らかい浮き球のパスを、胸で落とし、利き足の右足で振りぬいた。それは、見事なまでに「インザーギらしい」ゴールだった。

インザーギがこれから、どこのクラブでプレイするのか。それは、サッカーの神のみぞ知る。年齢を考えると、彼のキャリアのロスタイムは、残り少ないだろう。だが、だからこそ、インザーギは、輝きを放つに違いない。インザーギらしく。

最後に、ぼくの青春時代のヒーローに感謝の意を送りたいと思う。チャオ、ピッポ、グラッツェ。

 

 

 

 

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shohei0308

shohei0308

滋賀在住。「関西クラスタラジオ」でPodcastやってます(月一更新予定)。ニュースツイートを連発してフォロワーのふぁぼとRTを見て、Twitterを監視するのが趣味。口癖は、ぽよではなく、ほえー。