ご冗談でしょう、ファインマンさん〈上〉 (岩波現代文庫)
 

「語り方」に目をつけて読むと、

 
「ご冗談でしょう、ファインマンさん」は聞き書きをまとめた断片的な個人史だ。著名な物理学者を主役とし、彼の生涯のなかでも、人の心を思わずくすぐる実験やいたずら、発見、思い出が語られている。ここには、その昔、この世界に一人のずば抜けて賢い男がいたという確かな証が記されている。
 
 語り手「僕」は非凡な男だった。少年時代には三角関数の基本定理とその記法を再発明し(て教科書の証明はいまいちだと思い)、青年時代には代数の高速暗算や「自明な定理」をめぐる論争に熱中し、公私を問わずさまざまな実験を行なって、納得ならないことはしつこく議論し、ノーベル賞は「深夜に電話してくるのがむかつく」から断ろうとする。語りは愉快で明るい。
 
 驚いたことに、本書には残虐な暴力描写もなければ、激しいセックスシーンもない。悲しい死別も、つらい失恋も、苦しい青春も、しんどい挫折も書かれていない。いや、まっとうに考えれば驚くようなことじゃない。そういう書かれ方をする本だってある。しかし書評者は最近ようやくこのことに気がついた。だから二重に驚いた。こうして回りくどい言い方をするのも、書評者が現代文学村の出身者で、本書をまっすぐ面白がるのにめんどくさい手続きが要ったからだ。
 
 ざっと説明すると、現代文学を学ぶ人は、遅かれ早かれ「人の言うことをそのまま信じてはいけません」と教わる。書かれたことを鵜呑みにしてはいけない、細部を読み飛ばしてはいけない。見えすいた嘘や、隠しごとを見抜け。言葉づかいが不用意でないか、お約束を踏まえているか、秘密の内緒話にあなたは気づけたか……。
 
 だって、一字一句や各人物、書物全体に、深い意味や込み入った謎、見事な描写があるかもしれないし、ないかもしれない。というか、その作品専用の解読コードに基づいて読むと、確かに「そこには書き出されていない、もっと大事なこと」がありそうに読めてくるし、たぶん、ある。警戒心なくしてはまともに字も追えない。これは本来、文献学上の慎重さに由来する姿勢だが、半端に理論を聞きかじったせいで、疑心暗鬼になる人も、盲信してしまう人もいた。ほどなく彼らは否定や自嘲、諧謔のバトンパスを始め、疲れた自意識をこじらせてしまった。
 
 そんな空気に慣れた目で読むと、本書の「僕」は、身の上話を正直に語りすぎている。遠慮も屈託もない。「人がどう思おうと、ちっとも構わない」という感じだ。だから面白い。例えばこんなくだり。
 

なるほどその会社にはたくさん優秀な技師がいるには違いない。だが六五人もの技師では、さぞその能力の程度も違うだろうし、数の中には無能な連中もいれなくてはなるまい。これでは例の皇帝の鼻の長さや、中味がからっぽの本の評点を、平均で決めるのと同じことだ。その会社の技師の中から優秀な者だけを選ばせ、その連中に教科書を読ませる方がはるかに賢明な選考法だったはずだ。僕が六五人の技師の誰よりも利口だと断言することはできないがいくら何でも六五人の平均よりはましなはずだ!(「本の表紙で中味を読む」より)

 
「僕」が賢さ自慢をしているのでないことは明らかだが、注目してほしいのは、この語りが「僕」を取り換えのきく一個人だと見なしているところだ。記述のもっともらしさではなく、確からしさを大切にしているところだ。嘘や誤魔化しがないところだ。
 
 厳密には、この本の「僕」はファインマン教授自身ではない。話をまとめた人たちが丁寧に作ったキャラクターだ。みんなで「僕」を共有して、とある物理学者の半生を代弁させた、と言うほうが正しい。だけどそう読んだところで、「僕」の語りの魅力はあまり減らない。理系っぽい語りだからか。そうじゃない。そこは注目してほしいところじゃない。
 
 書評者は、言わゆる「でもしか教師」に無意味な暗記を強いられたことがある。そのせいで物理と化学が嫌いになった。後に最低限の用語は押さえたけど、定理を再証明したり、途中計算するのは苦手だ。本書の記述がどこまで妥当なのかは判別できない。もしかすると、もう古いのかもしれない。
 
 でも、書評者は現代芸術の一形式「現代文学」のルールや勝利条件には多少詳しくて、だから本書もそういう見方で読んだ。現代文学、危ないぞ、と思った。この本の物語にすっかり魅了されてしまった。ファインマン、かわいいなーと思った。騙されてもいいやと思った。
 
 

この本は文章が上手い。 

 
 どうしてかを説明するために、出版社のウェブサイトにある見本から引用すると、
 

 ロスアラモスでは戦争中はもちろんのこと、戦後になってまでも、「オメガ館に忍びこもうとしてる奴がいる」という噂がつきまとったものだった。戦争中、原爆の連想反応をほんのわずか起こすに必要なだけの材料を集める実験が行われていた。一片の材料をもう一片の材料の中に落とすと、これが通っていくとき反応が始まるから、これで中性子がどれだけ放出されたかを計るわけだ。この材料片はものすごい速度で通り抜けてしまうから、蓄積されて爆発する心配は無用だ。それでもある程度の反応は起こり始める。その反応が正しく始まっているか、その速度は適当か、予測通りに進行しているかなどを知るには充分なだけの反応である。だからやっぱり非常に危険な実験なのだ。

 
 この310字には、少なくとも4つの物語(の破片)がみっちりと書き込まれている。ロスアラモスでの噂、戦争中に行われていた原爆実験、中性子の動き方、実験の詳細。それぞれに位相が異なる物語だ。これらが継ぎ目なしにとん、とん、と語られる。文の主語は毎回変わり、文末処理も重複が避けられる。書き手の私情や主張は後景に退いて、「原爆実験の詳細」に読み手の視線をそっと誘導している。句読点ごとに話の軸が小刻みにぶれて、展開に不要な停滞や脱線がない。
 
 だから読んでいて退屈しない。この緊密さを保ったまま、「僕」は半生を飛びとびに語りぬき、弛緩なく読ませる。大きな「やま」や「おち」もないのに、語りに淀みや衰えが来ない。ぐいぐい読みながら、物語のなかで、「僕」がいつのまにか加齢していることに、後追いで気づかされたくらいだ。一貫した言葉づかいが「僕」の人格の安定に貢献している。

 こういうのを上手な文、文学的に優れた文と言うので、化粧の未熟なWeb小説を雰囲気で褒める人には多いに恥じ入ってほしい。というのも、本書は、現代文学の勝利条件などまったく気にしていないのにも関わらず、しかし相当数の日本文学に圧勝してしまっているのだ。
理由はふたつ。ひとつはいま書いた。この本は文章がとても上手い。
 そしてもうひとつ。この本はとても確からしい語りをする。
 

確からしい語りをする。

 
 本気で詳しく知りたい人には和歌の歴史を学んでもらうとして、かいつまんで説明すると、「私とあなただけの秘密」をみんなで共有するために、工夫して書くことが良い文学だ。そう見なす評価軸は昔からあって、それらはざっくり「韻文」と総称できる。韻文は、難しく、煩雑になりすぎると廃れる。他方、よく読めば「誰にでも明らかなこと」をみんなで共有する(中略)ことも、別の路線での、良い文学の条件だ。それらは(いつも)「散文」と呼ばれていた(わけではないが、ひとまずそう呼ぶ)。こちらも、易しく、手軽になりすぎたとき、定期的に飽きられてきた。
 
 いろいろあって、最近の現代日本文学(の先端部)では、暗喩や模倣の控えめな散文に人気が集まっていて、なかでも嘘の控えめな個人史がトレンドだ。個人の生涯を越えた大きな流れを切り出して、そこに何らかの価値を見出そうとする試みも増えた。作り話としてとてもよく出来ているために、かえって現実にいる書き手を脅かしてしまう著作もあった。何十年ぶり、何回目かの、シンボルがリアルより立場が弱い季節だ。
 
 やり方はそれぞれにせよ、「否定や自嘲、諧謔のバトンパス」や、「疲れた自意識をこじらせ」ることにはみんなうんざりしていて、まっすぐ、明晰に、ある時代やある社会、ある個人を、遠慮なく、屈託なく描いた作品が好かれている。つまり、『ご冗談でしょう、ファインマンさん』みたいな本だ!
 
 当たり前だけど、大事なので言うと、本書は20世紀の理論物理学における決定的で革命的な論文ではない。世界的に優れた物理学者が直筆した自伝でもない。本書は良質な物語集でありこそすれ、新しい理論書でも、惜しみないドキュメンタリーでもないのだ。だけど書評者は楽しく読んだし、きっとあなたも楽しめると思う。
 
 なぜかはここまでに書いたが、念押しで、もう一度、引用しよう。
 

ある会合に出席したところ、サイクロトロンでこの二つの粒子を異なった角度で、しかも異なったエネルギーのもとに発生させても、タウ何個に対してシータ何個というふうに結果はいつも必ず同じ割り合いでできてくるのだという報告があった。

 
 ここには何が書かれているか。書評者にはよくわからない。そういうときは続きを読めばいいのだが、
 

この二つの粒子が、ときによってパイ中間子二つに崩壊したり、三つに崩壊したりする同一の粒子であるという可能性も考えられないではなかったが、物理にはパリティ(偶奇性)保存の法則というものがあるから、誰もそんなことがあろうはずはないと思っていた。このパリティ保存則とは、物理上の法則はすべて鏡映(空間反転)に対して対称であるという仮定に基づいたものだから、二個のパイ中間子に崩壊する粒子が三個のパイ中間子に崩壊するはずはないというわけだ。

 
 やっぱりよくわからない。しかし明晰だ。はっきりしている。ある物質は、もしかすると変な動きをするかもしれないが、ふつうに考えて、そんなことはありえないと思われていた、と書いてある。「この二つの粒子」は「時代を代表する二つの思想潮流」を意味しない。「パリティ保存則」は「虚構と現実の対立が長らく続いてきたこと」を意味しない。深みや広がりのない語りだ。
 
 そういう次第で、『ご冗談でしょう、ファインマンさん』の類書には、『私のいない高校』『スティーブ・ジョブズ』『父の肖像』『動物王国ノクターン』『楡家の人々』『冗談』『農耕詩』をあげたい。どれも分厚く、実在の個人たちを主役にし、彼とその周辺の人が生きた時代を描画している。さっぱりした、確からしい記述に努めているところもそっくりだ。

 つまり『ご冗談でしょう、ファインマンさん』は優れた散文だ。そして今は散文の時代だ(と書評者は感じており、早くどうにか証明したい)。拙速な状況証拠はいくら挙げても決定打にならないから、「インターネットの言語環境は性質上」とか「今回の三島由紀夫賞は」とか「すでに07年には兆候が」とか、もっともらしいことを言うのは別のどこかでにする。
 
 ここでは「僕」の語りの明晰さ、遠慮のなさ、確からしさを伝えたい。この本に書かれた物語は、理系がわくわくするためだけのものじゃない。最新の現代文学の評価条件に照らし合わせても、とても豊かなものだ。
 

だから、いま読むのにぴったりだ。

 

 書評者の見立てでは、現代日本文学は、1973年頃からずっと同じことを考え、悩み、試してきた。たとえば、書くべきことなど本当はない、手持ちの言葉が乏しい、「僕」という素材そのものが貧しい。こうした悪条件を、なるべくそのまま活かし、むしろ魅力として輝かせるために、ずっと試行錯誤が続いていて、今も続いている。なかでも、否定や自嘲、諧謔のバトンパスを続けるゲームは、扱いやすい手法として今でも根強く人気だ。しかし疲れた自意識はこじらせやすく、いつまでも続けていると、そこにいる誰も賢くなれなくなってしまいそうだ。

『ご冗談でしょう、ファインマンさん』を読んで、書評者は、そういうのはもうしばらく要らないかなーと思った。「そういうの」とは、疲れた自意識をこじらせることだ。否定や自嘲、諧謔のバトンパスだ。用意周到な暗喩の設計が、深みと広さが、良い文学の条件として重要視されてきたことだ。さらに言えば、自分が生まれ・育つ前に何があったのかを知ろうとしないことだ。

 リチャード・P・ファインマン(1918-1988)は、書評者が生まれた年に亡くなった。70歳だった。書評者はもうすぐ24歳になる。彼が生きてきた時間は日本の「昭和」にほぼ重なっていて、どうあがいても同時体験できない、生き逃してしまった過去について、もっとよく知ろうと書評者は決心する。本書はそのきっかけになった。
 

(了)
 
 
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
笠井康平

笠井康平

ねとぽよでは記者と編集のお手伝いをしています。

文芸誌「新古典派フィクションズ」の主宰で、ひっそり小説も書いています。

日本文学史とウェブカルチャーに詳しくなって、この国の歴史と文化の最適な記述法を編み出したい。