要約

 

 著者のジャレド・ダイアモンドは、カリフォルニア大学、ロサンゼルス校の医学部の教授である。彼の活躍の分野は多岐に渡り、生理学で博士号をとったのち、分子生理学、進化生物学を、さらに分子生物学、遺伝子学、生物地理学、環境地理学、考古学、人類学、言語学といった様々な分野を領域横断的に活躍している。

 この『銃・病原菌・鉄』は、6部構成(プロローグとエピローグを入れて)になっており、文庫本では、上下巻合わせて800ページを超える大著である。原著は、1997年に、書かれたもので、草思社から2000年に単行本が発売され、朝日新聞の読書面の企画である「ゼロ年代の50冊」で一位になった。2012年の今年に文庫本が刊行された。

 この本は、歴史におけるいくつもの「謎」を解き明かしていく形で展開される。つまり、何故今の歴史になったのかを逆説的に、考えていく。それは、著者が言うように、科学的なアプローチであるが、その禁欲的なまでに、歴史を固有名からではなく、環境の観点から描く歴史観は、読んだ者にある種の感慨を抱かせる。

 

 

 ジャレド・ダイアモンドは、長年に渡って、ニューギニアでフィールドワークを行っており、「ヤリ」という名の現地人から質問をされる。

「あなたがた白人は、たくさんのものを発達させてニューギニアに持ち込んだが、私たちニューギニア人には自分たちのものといえるものがほとんどない。それはなぜだろうか」

 この余りにも素朴な質問に対して、著者は、容易に答えることはできなかったと言う。そして、この著書は、ヤリのこの素朴な疑問を著者なりの観点から描きだすものである。

 彼は、その答えを表題の『銃・病原菌・鉄』として挙げる。そして、それらが生まれた経緯についても説明する。彼の理論のフレームワークを図示すると以下のようになる。

 

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 環境の差異によってまず、食料生産へのステップへ踏み出せるかどうかが決まる。それは、肥沃な土地や過ごしやすい気候であるかだけではなく、栽培可能な植物が存在しているかどうか、家畜化可能な大型の動物が存在しているかどうかなどである。

 そして、食料生産ができる社会は、農耕によって余剰生産物を産み、支配層/被支配層を産み、文明をもたらした。さらに、牧畜は、運輸と軍事力の発達を促し、家畜と多く接触することによって病気に対しての免疫力もつく。結果として、農耕と牧畜がある社会はない社会よりも、戦争において有利にたつことができた。

 こうした、いくつかの歴史上の分岐点における環境上の違いが後々の大きなスペインによるインカ帝国征服などを規定しているというのが、彼なりのヤリの疑問に対する答えである。

 つまり彼の言う歴史は、日本人の好きな三国志や、戦国時代の武将や明治維新などの固有名の歴史ではない。彼の言う歴史は、あくまでも、システムの歴史であり、環境の歴史なのである。

 個人的に面白いと思った箇所を複数あげておこう。一つは、第10章の「大地の広がる方向と住民の運命」である。これは、簡単に言えば、ユーラシア大陸が横に伸びていて、気候などが比較的に同質であったおかげで、農産物や家畜、文化が伝播する障壁が低く、逆にアフリカ大陸や南北アメリカ大陸といった縦にのびている大陸では、伝播する障壁が高かったという話である。基本的に、障壁というと、多くの人は、文字通り「壁」のような山や川をイメージしがちだが、アメリカのテキサスと南部の大平原のように、農業に不適合な乾燥地帯も障壁となりうるのだと彼は言う。

 そして、もう一つは、第13章の「発明は必要の母である」において書かれているファイストスの円盤の話だ。ファイストスの円盤とは、1908年7月3日にクレタ島南岸のファイストス宮殿(もしくは神殿)の内部でイタリア人ルイジ・ペルニエル (Pernier) によって発見された厚さ2.1cm、直径16cmの粘土製の考古学上の遺物である。年代を考えると、最古の凸版印刷である。だが、そのような発明も結局は、歴史的に忘れ去られていた。

 彼は、このようなことを書いている。

 しかし、あの時、あの場所で、あの人が生まれていなかったら、人類史が大きく変わっていたというような天才発明家は、これまで存在したことがない。功績が認められている有名な発明家とは、必要な技術を社会がちょうど受け容れられるようになったときに、既存の技術を改良して提供できた人であり、有能な先駆者と有能な後継者に恵まれた人なのである。そして、ファイストスの石盤の記号の母型を完成させた人間の悲劇とは、社会がまだそれを大規模に活用できない時代に、それを作りだしてしまった悲劇なのである。(下巻67ページ)

 このような文章を見ると、やはり、スティーブ・ジョブズのことを思い出さずにはいられないのは、自分だけではないだろう。ジョブズは、今や神格化までされているが、彼の人生は決して薔薇色のものではなかった。彼が、今のように広い意味で受け入れられるようになったのは、つい最近のことだ。具体的な例をあげると、彼が「五年は先取りしている」と語ったNeXTCubeは、その膨大な開発費用に対して、あまり売れなかった。余りにも、それは時代に対して早すぎたのだ。ファイストスの円盤のようなあまりにもハイテクノロジーなものは、今ある現実とあまりにも不連続であるがゆえに、少数の憧憬の眼差しを集めはするが、多くの人びとの目に止まることは少ない。そして、歴史から消えていく。結局のところ、今iPhoneが世界中で人気を博しているのも、それを支えるインフラが整ってきたということと、使う人が習熟してきたという環境の要因が大きい。

 

批評

 

 この本は、極めて明快な一つのテーマのもとに書かれている。それは、著者のジャレド・ダイアモンド自身が、要約してくれている。

歴史は、異なる人びとによって異なる経路をたどったが、それは、人びとのおかれた環境の差異によるものであって、人びとの生物学的な差異によるものではない。(上巻45ページ)

 つまり、この本は、「人間の歴史は、特定の個人ではなく、環境によって左右されてきた」ということを書き記した本である。

 では、ぼくはこの本の書評において、同じような読解を試みたい。つまり、特定の本が受容されるということは、環境的な要因が存在しているということ。もっと単純に言えば、何故この『銃・病原菌・鉄』が、朝日新聞の読書面での企画、「ゼロ年代の50冊」で一位を飾るほどに、売れたのか、である。

 この本のタイトルである『銃・病原菌・鉄』の3つの要素は、高校の歴史の科目で、「世界史」を選択した人であるならば、どれだけ人類の歴史において重要なポイントだったかは、ご存知だろう(もちろん、日本史でも同じようなことは書かれている。例えば、織田信長の鉄砲の話など)。かの有名な山川出版社の世界史の教科書を隅から隅まで読んでいれば、むしろ常識なのではないかということが、この本書では何回も繰り返される。例えば、農耕や牧畜が始まったことで文明が発展したことや、ピサロのインカ帝国征服のエピソード、中国という国の特殊性といったことは、大学受験にも出てくるようなことばかりだ。

 このエピソードを読んで感動したという人は、高校の世界史を詰め込み教育だと勘違いしているのではないだろうか。歴史を学ぶとは、単純に覚えるだけではなく、なぜそうなったのか。さらには、そうならない歴史はなかったのだろうかという想像力を養うことだということだ。だから、この本を初めて読んだとき、ぼくは「当り前のことを繰り返しているだけじゃないか」と思わざるを得なかった。

 だが、よくよく考えてみると、このような環境が歴史を規定するという歴史観が当り前になったこと自体が、ゼロ年代的であったとも言えるのではないか。ゼロ年代とは、そもそもどういう時代だったか。インターネットを誰もが使えるようになり、90年代後半に生まれたGoogleが世界中の情報を整理し、次にソーシャル・ネットワークが全盛になってきた時代。つまり、人びとの環境が大きく変化したことによって歴史が変化した時代である。表題の『銃・病原菌・鉄』を、『Google・SNS・スマートフォン』と読み替えて、この本を読むとまた面白い読み方ができるかもしれない。

 また、近頃の大きな歴史的事件であるエジプト革命を見ても、そのような歴史観が反映されているように、僕は思う。例えば、Wael Ghonimという人物は、エジプト革命において重要な位置にいた人物であるが、多くの報道の中では、彼の「固有名」よりも、彼の「属性」についての記述が目立つ。彼は、Googleの中東・北アフリカ地域担当のエンジニアであり、Facebookにおいて、「われわれ全員がハリド・サイードだ(We are all Khaled Said)」というキャンペーンを行ったことは知られているが、驚くほどに彼の名前は知られていない。これは、この『銃・病原菌・鉄』の中で特別な天才は存在しないと書かれていたことに、符合してるのではないだろうか。天才的な「固有名」は、確かに存在するが、相対的に後景に下がり、それよりも「環境」の方が前景にせり上がってきた。それは、天才がいなくなったということではなく、天才がかつてほど、重要視されなくなってきているということだと思う。

 このようなゼロ年代的な人びとの歴史認識の変容によって、『銃・病原菌・鉄』という本が受容される環境が整ってきたということになるのではないだろうか。そう、まさにファイストスの石盤のように。そして、そのような大胆な読みが許されるのであれば、この本は、まさしくゼロ年代を象徴する一冊である。97年というゼロ年代の直前に、ゼロ年代的な歴史観を上手く描いていたから、この本は広く受容されたのだろうというのが、ぼくなりのこの本に対する評価だ。同じように、9・11以前に、9・11以降の思想を描いていたと、広く受容された本で、ネグリ=ハートの『<帝国>』が挙げられる。

 だが、ここで少しそうした「環境の歴史」観というものに対して反論めいたことも書いておかないと、批評というからには、ダメなような気もするので、書いてみようと思う。「固有名のない歴史」は、あたかも歴史は必然的であるかのように、人びとに錯覚させてしまう。結局、全てがシステムだと言ってしまったときに、人びとの「自由」は、「意志」は、どこにあるのだろう?あくまでも、ぼくらは歴史の中にいる。効率的に、物事をこなす「動物=機械」ではなく、「人間」として。

 そして、この本はある種の西洋中心的な歴史観を助長してしまう危険性も孕んでいる。まあ、特にこの点を細心の注意を払って書かれている本ではあるのだが、そういう風に、「誤読」してしまう人は嫌でも出てくる。それは、この本自体が悪いわけでもなく、歴史学が悪いわけでもなく、多くの学問が抱える構造の根本的な問題でもあるのだが。

 まあ、ぼくの考えつくこの本への反論はこのようなものだ。重箱の隅をつつくようなこういう反論は自分は好きではないし、概ねこの本は、反論が難しいという点でも良い本であることは間違いない。

 

 少々、回り道をしてしまった。話を戻そう。

 以上のように、この本は、人びとの歴史観の移行期の初期の段階に、その環境の変化を発見していたということが、重要なポイントなのであって、環境が完全に環境になってしまった今、何故この本が凄いのかが分からないという人は、ある意味正しい。だが、どのようなアプローチでそうした転換点を見つけられたのかを考えることで、次の歴史の変化のパターンを見つけ出す手がかりにはなるだろう。

 この本のアプローチで重要なのは、個々の事例を細かく見る視点とそれを大局的に見る二つ視点が同居していることだ。つまり、ズームインとズームアウトをこの本の読者は、知らず知らずのうちに、繰り返している。このような全く別々の焦点を二つもつという「楕円的な思考」(後藤明生 – Wikipedia)をすることによって、個々の事例に矮小化されず、さらに、完全に抽象化されずに、アプローチすることが可能になる。簡単な言葉で言えば、ベタとメタの往復運動をこの本は意図的につくりあげている。

 環境を「発見」するためには、環境の内部から見上げる「だけ」でも、外部から眺める「だけ」でもだめだ。むしろ、内部と外部を往復的に移動することで、両者の視点を手に入れることが、重要なのだ。そして、その考え方こそが、一般にゼロ年代批評において、最も重要な点であるとともに、この『銃・病原菌・鉄』という本の戦略だ。

 ぼくたちは、常にある小さな環世界の中という経験的な水準の中で没入的に生きている自分と、また別に、そのような自分たち(キャラ)が複数いることを自覚する超越的な自分とが乖離的に共存している。具体的に言えば、ぼくは、学校、家族、サッカー、Twitter、Facebookなどの場所ごとに、キャラを使い分けている。そして、その使い分けている「自分たち」を認識する自分もいる。その共存は、ほとんど、無意識的に、ほんの少しだけ意識的に行われている。だが、その少しの意識的な部分こそが、ゼロ年代の批評において、『ゲーム的リアリズムの誕生』で語られた「それでも人間的であること」だった。そして、この本も同じように人類の数々の歴史上の分岐点を、まるで、美少女ゲームのループ構造(美少女ゲームを知らない人のためにループもの – Wikipedia)のように、何度も何度も繰り返すことで、メタ的な視点を「半ば自動的」に読者に植えつけさせる。本書を読んでいるとき、知らず知らずのうちに、美少女ゲームのように人類の歴史をぼくたちは読んでいるのだ。そして、ぼくたちは、今ある歴史が多くの選択肢の延長線上にあるということに、はたと気づく。そのような読み方が可能になったのは、やはり、ゼロ年代批評によって、大きく環境が変わったおかげだと言えるだろう。

 この批評部分は、「何故、この本がゼロ年代を代表する一冊であるのか」という問いを主に扱ってきた。そして、その問いは、こう結論づけられる。まず、第一に、ゼロ年代という時代は、「環境」によって規定される歴史認識というものが、一般的になってきた時代であった。そして、この本書は、そのような歴史認識を先取りする形で描かれている。そして、第二に、この本は、まるで、ゼロ年代批評の重要なファクターである美少女ゲームのように読める歴史学の本である。以上の二つの理由において、この本はゼロ年代を代表する一冊として読むことができる。(…代表する一冊ではあるが、この本がベストであるのかどうかということは、抜きにしてという留保つきだが。)

 

追記:コメント

 

 ぼくは、概ね、この本をベタに読んで「なんだ、この内容の乏しい本は…」という人のために、つまり、ぼくのような読者のために、この書評を書いた。だが、これは、繰り返し、言っておくが、ぼくにとって、この本は決して面白くなかった。いや、もっと言えば、退屈だった。なぜ、この本が評価されているのか、全く分からなかった。だが、それでもぼくなりに、この本を面白く読むことはできないかという試行錯誤の結果がこのような文章を書かせたのだろう。

 この本は、確かに良い本であることは間違いがない。ぼくの中の良い本の定義には、「タイトルで8割中身を説明している本であること」と「多面的な書き方をしていること」というものがある。この本は、それを満たしている。だが、良い本であるということと、面白い本であることは、全く別の次元に存在している。少なくとも、ぼくの場合は。

 ぼくは、科学的な歴史へのアプローチ自体は好きだが、結局のところ、この本の言おうとしていることは、余りにも「普通」過ぎた。(マーク・ブキャナンの『歴史はべき乗則で動く』のようなわくわくさせてくれるような物語がぼくとしては好みだ。) しかし、最終的には、ぼくがこうやって「普通」だと考えていること自体が、ゼロ年代という磁場の強さを感じさせるものなのだろうという結論に至った。その結論は、あくまでも妥当性のある一つのストーリーにすぎない。だが、その意見に対しては、歴史を科学的に論じるこの本の書評においては、「反証可能性のない科学は科学ではない」というあの有名な言葉を思い出してもらえると幸いだ。しかし、まあ、この結論すらも「普通」過ぎて面白くないのかもしれないが。もっと、広い意味での「歴史」については、言いたいことはあるのだが、とりあえず、この本の「書評」についてはこれで終わりにしよう。

 

参考にしたものリスト

 

 

次回は、@kasaikouhei君による、『ご冗談でしょう、ファインマンさん』です。

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shohei0308

shohei0308

滋賀在住。「関西クラスタラジオ」でPodcastやってます(月一更新予定)。ニュースツイートを連発してフォロワーのふぁぼとRTを見て、Twitterを監視するのが趣味。口癖は、ぽよではなく、ほえー。