リレー書評第5回:ポケモンの“父”を訪ねて ~宮昌太朗+田尻 智「田尻 智 ポケモンを創った男」 (前編) – ねとぽよ)より続く。

 

ゲームとして受け継がれた「ポケモンの抵抗」

 

<ゲームによる首藤的テーマの回収>

 BWは、まさに首藤剛志がポケットモンスターに対して残した大きな宿題をゲームが回収したものだとも言える。もちろん、制作者はそのようには述べてはいないのだが、作中で語られる「ポケモンと人間のあり方」をめぐる作中の人々の会話は、期せずして首藤の考えていたポケモンと人間の間の非対称性——「差別」の主題の反復になっているとも言えるだろう。

 では、そのような意図で作られたポケモンBWは、どんなストーリーだったのだろうか。読者の中には、もうポケモンから離れてしまって、BWのストーリーをご存じない人も多いと思うので、要約しながら論じていく。もちろん、以下「ネタバレ」である。

 舞台はイッシュ地方。これまでの日本をモデルにした地域ではなく、ニューヨーク州南部がモデルである。主人公はいつもの通りポケモン一匹と図鑑を博士からもらって旅にでる。

 初期のロケット団にあたる敵は「プラズマ団」という「人間からポケモンを解放すべき」と説く集団である。ライバルキャラである「N」は「プラズマ団」のリーダーであり、ポケモンと意思疎通が可能な力を持っている。(ちなみにトラウマのあるイケメン天才少年)。そして彼は、「ポケモンと人間は違う場所で生きるべきである」と語る。

 だが、このNという天才少年は創られた天才だった。彼は子供の頃に、傷ついたポケモンたちとともに過ごしたことで、ポケモンを解放させる思想を身に付けたという。だが、実はそのような一種のトラウマ体験そのものが、策略によるものだった。その黒幕こそが、彼の義理の父であるゲーチスである。彼はプラズマ団の幹部であり、ゲームの中でも「ポケモンを開放しろ」と演説する。しかし、実際には彼は裏で謀略を巡らせていた。解放されたポケモンを自分の元に集めて、プラズマ団が独占してしまおうと企んでいたのだ。

 今回の物語は、ついにゲーム内で「ポケットモンスターは、モンスターボールで捕まえられると、持ち主の言うことを聞かなければいけない」と明言した作品である。一方で、シリーズを重ねるごとに「伝説のポケモン」たちが登場し、徐々にポケモンがあたかも知性を持っているかのように描かれてきてもいた。そんな状況下で、「ポケモンを人間が一方的に使役することは倫理的にどうなのか?」という感覚は確かに多くの人に芽生えるものだろう。この作品は、ある意味でそれをストーリーに回収してみせたとも言える。

 

<トラウマ実存問題へと矮小化された首藤的テーマ>

 だが、結果的に出来あがった物語は、少なくとも「差別」のテーマを期待した人間にとって、到底満足のいくものになっているとは言えない。

 終盤で、ポケモン解放運動をしていたプラズマ団は、自分たちがポケモンという「軍事力」を独占する陰謀をもっていたのが明らかになる。しかも、彼らはポケモンの窃盗・強奪などまで行なっていた。その代表であったN(トラウマイケメンライバル)は、それを知らされて深く傷つくことになる。結局、彼がしたことと言えば、人間に虐待されていたポケモンの気持ちを代弁をしたことくらいなのだ。

 しかし、不可解なことに、彼は主人公にバトルで負けて、なぜか納得してしまう。そして、ラストは伝説のポケモンにまたがって、新しい自分を探す旅へと発っていく。何だか感動的に描かれているが、これは差別や権力というテーマの矮小化でしかない。最近の映画で言えば、『ダークナイト・ライジング』のようなものだ。あれも、市民への決起を呼びかけた男の物語でありながら、最後は陰謀論とトラウマへと回収されていく映画だった。あの映画とこのゲームのがっかり感は、どこか似ている。ポケモンとはなんなのか、人間にポケモンは支配されてよいのか、という問題意識は消化されないまま、BWは終わってしまったのである。

 ちなみに、続編であるBW2は、プラズマ団解散後の時間軸で進む。ライバルキャラはプラズマ団に家族のポケモンを盗まれ、それを探す少年。もちろんプラズマ団に怒りを燃やしている。BW2では、プラズマ団はBWでの陰謀の首謀者であったゲーチス派と、ポケモンの解放の理念を素直に信じていた純粋なN派とに別れていることなどが描写される。しかし、結局それは、人間がポケモンをネタにもめているだけであって、ポケモンの「当事者」としての意思については、主人公やNを英雄として承認する「伝説のポケモン」くらいしか出てこない。主人公のパートナーであるポケモンの意志すらも、バトルで勝利した際にNによって代弁されるのみだ。

 これが「差別」というテーマを描いたストーリーの破綻でなければなんなのだろうか。このテーマを当事者の意志抜きで語ることは、不可能なのである。

 この破綻を、首藤が延々と悩み続けていたゲーム/アニメのメディア論的差異をひょいと飛び越えてしまったことに帰することも出来る。しかしそれ以上に、問題の根源にあるのは、特定のポケモンの意志のみを代弁して、押し付けがましく解放を説いたNの態度だったのかも知れないとも思う。ポケモンの意志は代弁されるだけで、ポケモン自身がそれを表明することはない。それは、まるで口だけ達者な、「意識の高い」ボランティア学生のようだ。

 この物語は、ポケモンと人間の非対称性という、開けてはならない「パンドラの箱」のようなテーマを扱っていながら、その手つきはあまりにも無造作であったと言わざるを得ない。

 

書かれなかったアニメ版ポケモンの結末

 

 <「ポケモン」の“サザエさん”化により、首藤が断念した結末>

 ここで思い出すのが、「自分とは何なのか」という当事者の立場から、人間に敵対するに至ったミュウツーであり、それを描いた首藤のことだ。

 実は、アニメ版のポケモンの結末について、首藤はある構想を抱いていたという。それは、なんと自我に目覚めたポケモンたちが、サトシたち人間に対して反乱を起こす物語であったという。そこでは、ピカチュウがポケモンたちのリーダーに祭り上げられてしまうというのだ。言わば、ミュウツーが、自ら革命思想を抱いてポケモンを覚醒させようとした革命家ならば、ピカチュウは、自我に目覚めたポケモンの群衆に祭り上げられた指揮官となるわけだ。

 

 サトシとピカチュウは友人同士のつもりである。ピカチュウはポケモンとしての自分を選ぶか? 違う生き物である人間と、友情、感情という移ろいやすいものをたよりにいままでのように共存していくのか?

 サトシとピカチュウは苦悩する。

http://www.style.fm/as/05_column/shudo184.shtml

 

 人間とポケモンが存在論的に孕んでいる権力構造。ミュウツーの逆襲では、サトシの行動に、ポケモンたちが心を動かし、涙を流すことで、共感の可能性を示した。それは、「憐れみ」という共感による権力構造の克服と言える。だが、こっちの方はそんな『ミュウツーの逆襲』のラストより、ずっとコミカルだったようだ。なにせ首藤が、ここでひょいと取り出してくるのは、何とあのロケット団とニャースのトリオなのである。

 

 「しかし人間とポケモンは共存できるよ」

と、いいながら、いけしゃあしゃあと、その戦いをやめさせるために活躍するのがロケット団とニャースのトリオである。

 なぜなら、『ポケモン』の世界で出来の悪いポケモンを押しつけられ、さまざまなポケモンと出会い、自身が意識しなくても、ポケモンについていちばんよく知っているのは実はムサシとコジロウ……そして、一度は人間になりたかったニャースなのである。

 彼らはポケモンと人間の共存関係の見本になっていた。

http://www.style.fm/as/05_column/shudo184.shtml

 

 一方、テレビ版では元々ミュウツーの登場も予定されていた。

 

 そして、「自己存在の問い」に対しては、自分がポケモンなのか人間なのか、クローンなのか、一つの答えを見つけたミュウツーがいる。

 相手がポケモンであろうと、クローンであろうと、はたまた、出会うことのなかった何かであろうと、自己存在のある限り、われわれはどんなものとも共存できる。

http://www.style.fm/as/05_column/shudo184.shtml

 

 首藤は、こんな風にポケモンの終わりを構想していた。不器用で社会からこぼれ落ち、その詰めの甘さ故にこぼれ落ちた先でも失敗を続け、しかしそのダメさ故に種を超えて培われた、「なぁなぁ」さによる共存。それこそが、なんと最後に世界の危機を救ってしまうというのだ……!

 また、僕が驚いたのは、そのストーリーの過激さだけではない。何よりも、このエンディングが可能なように描写されていた「ロケット団」という存在についての彼の想いだ。僕がこの記事を書こうと思い立ったのは、僕達が少年期に最も影響を受けたコンテンツである「ポケモン」に、このような理想を託した人間がいたということにある。

 だが、ポケットモンスターが10年も続く長寿シリーズとなり、いわば「サザエさん」化したことによってそれは不可能になった。また、このプロットをどう捉えるべきかも、人によって評価は分かれるに違いない。こんなものは、B&Wよりも解決の体をなしていないという意見にも、一定の説得力はある。

 

<「戦うポケモンがいなくなります!」>

 一昨年、BWのエンディングを見たあと、僕はこのテーマの答えを探して、しばらくイッシュ地方をさまよった。もちろん、そんなものはなかった。

 だから、僕は何の意味もないのはわかっていたけれど、自分の手持ちポケモンを全部逃がしてみた。それには、幼いころポケモンマスターを目指してマサラタウンから旅立ち、ポケモンを現実に幻視し、そしてアニメーションによってポケモンと人間の関係の理想を語られた僕たち。その一人ひとりが決めるべきなのではないか、と思ったというのもある。

 だが、一匹逃し、二匹逃し……しかし、それを続けた最後に分かったのは、そんなことは不可能だということだった。

 

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 最後のポケモンを逃がそうとしたとき、画面から投げかけられたのは「戦うポケモンが いなくなります!」の一言だった。その一文が最後に教えてくれたのは、ポケットモンスターが結局のところ「バトルゲーム」であり、それを否定することはゲームとして不可能なのだということだった。

 あのとき宙吊りにされた気持ちを、BW2は決して回収はしなかった。むしろ通信対戦をより支援するように、バトルゲームとして親切になっていたようだ。現実から出発し、理想を託され、そして多くの人間のものとして巨大な虚構になったポケモン。それがせめてストーリーの一部でも、一人ひとりのプレイヤーの手に委ねられる日は来るのだろうか

(了)

 

 

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