ファッション雑誌と女の子は、とても密接な関係にある——そんな実感は、女の子であれば誰もが持っていると思う。だが、それはほとんど語られてこなかったのではないだろうか。だから、講演前に『ギャルと不思議ちゃん論』を読んだとき、これまで自分が見てきた女の子のリアルな姿があまりにも明瞭に書かれていることに、驚いた。

 

 

この本で松谷さんは、80年代から現代までの女の子のあり方を、様々な女性誌を用いて分析している。その分析範囲は、『CanCam』『JJ』などの赤文字系から『CUTiE』『non-no』など、個性派で奇抜といわれる青文字系まで及ぶ。

そうして彼は、各時代ごとに注目されたファッションや芸能人、あるいはマンガなどのサブカルチャーに注目し、「ギャル」と「不思議ちゃん」という二軸を取り出す。それによって、それぞれの女の子がいかにアイデンティティを獲得してきたかを、社会学的に分析しているのだ。

実は、中学・高校と都内の女子校に通っていた私は、共学で過ごしてきた子に比べれば、自分が女の子であることを深く考えずに過ごしてきた。それはファッションに興味がなかったということではない。むしろ、様々な雑誌を読み、いろんなジャンルの服を着て、ファッションを楽しんできた方だと思う。

しかし、私は「同性からの視線」は意識してきたものの、「異性からの視線を感じる中で、女の子としての自分を表現する」ために、ファッションがあったという自覚はなかった。これは、『ギャルと不思議ちゃん論』の中にある、ギャルと不思議ちゃんの二軸を分ける大きな基準に「他者からの視線」があるという議論を読んで、認識したことだ。

中高一貫の女子校を離れて、大学入学で大きな環境の変化があった私は、この本を読んで初めて、今まで強く意識してこなかったファッションの一面に気付かされた。同時に、ファッションと女の子の関係がどのような歴史を辿ってきたのか、男性がこの本に書かれていることをどう考えるのか、とても興味を持った。そこで、この講演会に、中高を同じ女子校で過ごしたさらりんと、群馬の共学に通っていたろっくまんと一緒に三人で行ってきた。

 

 

会場は、渋谷のスクランブル交差点の目の前にある大盛堂書店。かつては、コギャルたちが闊歩していた聖地・渋谷にも、今では青文字系の女の子もキレイ系のお姉さんもたくさん見られるようになってきた。講演中、松谷さんも「センター街にも色んなジャンルの人がいた」と言っていた。私の印象では、他の街と比べれば、まだギャルっぽい服装をした女の子は多いものの、渋谷=ギャルという感覚は失われてきていると思う。

会場には40人弱の人が集まり、その内の8~9割を女の子が占めている。今まで私が行ったことのある講演会や対談と比べても、圧倒的に女の子が多い。この男女比に対する宇野さんの嘆きから対談は始まった。ビシバシ議論が交わされるというよりは、ゆるやかに内容を振り返る形で話は進んでいく。

正直に言って、本を読んでいるときには、自分が実際に体験してきたことも多く、あまり客観的に読めていなかったところもあった。目の前で語られる自分たちのファッション史に、「わかるわかる」と頷いたり、「それは違う!」とすかさずつっこみを入れたりする女の子たちの姿を見ると、それは私だけではなかったようだ。

各論として「少女文化」や「ギャル」について研究されたものは多くあったが、ジャンルを越境した歴史は語られてこなかった。そんな中、客観的な視点から男性二人が語り合う対談は、純粋に面白かった。女の子からすると当たり前のことも、男性にとっては考えられないことだったりする。二人の会話を聞き漏らすまいと、つい前のめりになってしまう。

 

講演でまず議題になったのは、外見や服装だけでは女の子のあり方を分類しにくくなってきたことだ。松谷さんは、「(『ギャルと不思議ちゃん論』は)主に1980年代から2007年辺りまでの女の子のあり方を取り上げていて、最近5年間に関しては意識的に語らなかった」と語る。この本にもあるように、確かに2007年以前であれば、ギャルの女性誌なら『egg』、不思議ちゃんの女性誌なら『CUTiE』というような分け方ができたかもしれない。しかし現在では、経済状況の変化による赤文字系の衰退に加えて、ギャルと不思議ちゃんの境が明確でなくなってきた。2007年以降の女の子の姿については、ファッションという視点から語るのが難しくなっている、と言うのである。

その結果として難しくなったのが、象徴的なイメージを特定のモデルに重ねることだ。例えば、かつてであれば「可愛い服ならエビちゃんに、かっこいい服ならもえちゃんに」、と言えたように。だが、今はそう簡単にはいかない。

何しろ、『CanCam』を読む女の子が『Zipper』を読むのはふつうのことなのだ。g.u.というファストファッションとタイアップをしていた前田敦子の後に選ばれたモデルは、原宿系と言われている、きゃりーぱみゅぱみゅだった。『KERA』の表紙を飾ったこともある、あのきゃりーが、ジャンルも年齢も問わず、「ふつうに」、しかも幅広く消費されている。きゃりーが、TOKYO GIRLS COLLECTIONに出てても、ギャルのブランドを着ていても、別に違和感もない。ギャルもきゃりーの出ている雑誌やブログをチェックするし、逆もまたしかりなのである。

会場から積極的に意見を述べる観客もいて、議論は大いに盛り上がった。宇野さんは、ここでの議論を「この複雑化した状況を象徴する誰かを、あえて一人挙げるならきゃりーぱみゅぱみゅだし、いろんな女の子がいるということが常態化してるシステムとしてAKB48があるということではないか」とまとめていた。

とはいえ、ギャルと不思議ちゃんを大きく分けていた、異性からの視線をどう受容するかは、今でも女の子にとって避けられないものだ。松谷さんの本には、90年代であれば、”「ギャル」は「異性の視線をうまく利用」し、「不思議ちゃん」は「異性の視線を拒絶」してきた”ことが書かれている。その問題は、現在はどうなっているのだろうか。

 

実は、私自身は服を選ぶ基準に「異性からの評価」が入ることは、あまりない。恋人や落としたい男性がいる女の子がそれを基準に服選びをするのはままあることだが、男性全般からのウケを気にする女の子は「コビ」ていると評価されがちだ。雑誌で言えば、かつての『JJ』は、『CanCam』と比べると「コビ」のイメージが強かった。また、ギャルブランドだとLIZ LISAやTRALALA、JESUS DIAMANTE、MARZなどを着てる女の子は、端的に言って「痛い」と言われる。

おそらく別に「自分のキャラをこのファッションで伝えたい」という確固たる信念があるわけではないのである。ただ、「こういうタイプの女として振り分けられたくはない」という「同性からの視線」が内在化されていることだけは事実だ。それは異性に対する「コビ」や「痛さ」への嫌悪感である。なお、ジャンルの越境が許されないのは、「コビ」系「痛い」系ブランドを避けているときのみであり、逆に言えば、そこさえ避ければどんな服を着ていても同性からの否定的な評価は受けにくいと、私は思う*1。

とはいえ、やはりアイデンティティを規定する手段として、ファッションはかつてほどの影響力を持てなくなっていると私は考える。例えば、ろっくまんとさらりんと私は、好きな服のジャンルがそれぞれ違う。しかも、三人で話していてひしひしと感じたのは、地域によってファッションへの興味に大きく差がある、ということだった。ろっくまんから聞く群馬の事情では、そもそも、雑誌に掲載されているような服を買える地域に住んでいない。そうなると、ファッションに興味を持つのは、クラス内でも少数派。私やさらりんは、着たい服や好きなジャンルのファッション誌はもちろんのこと、本屋にあるほとんどのファッション誌をむやみやたらに読んでいた時期もあったので、これは衝撃的だった。

それでも、私たち三人は会話することにためらいがない。これは、ジャンルが複雑化してきているというだけでなく、後述のように、ファッション以外にも相手のイメージを規定する要因があることを示しているのだと、私は考える*2。

 

一方で、そうしたファッションの影響力が低下した現在でもなお、異性からの視線をどう受け入れているかという問題は残っており、私たちのアイデンティティはそれに規定されている——そう、私は考えている。そこで重要なのが、インターネットの存在である。インターネットの利用が進むにつれて、自分のキャラクターを示す際に、テキストもファッションと同程度に重要視される判断基準になってきているように思えるのだ。

以前は、「ギャルなら渋谷、不思議ちゃんなら原宿」と、あるジャンルの服を着る子が集まる一つの場所があり、土地と文化が密接な関係を持っていた。しかし、コミュニケーションの中心がインターネットに移ると、地理が文化を決定することが難しくなると同時に、自分を表現する手段にも変化が見られる。例えば、ろっくまんは、「私はこういうキャラだよ、って伝えるためには自分のTLを見せるのが一番手っ取り早い」らしい。Twitterを見れば、その人のキャラはなんとなく掴めるという実感を持っている人も多くなってきていると思う。ファッションと同程度に、テキストや文体から垣間見えるネット上のキャラもアイデンティティを規定しているのではないだろうか。

 

とは言っても、別に「異性からの視線」に対して、「セックス気持ち悪い!」「処女ウエーイ!」「ホモォ┌(┌ ^o^)┐ホモォ」「私は女の子が好き!」などと、自分の嗜好をはっきりとみんなが言葉で伝えているわけではない。女の子がセックスへの価値観を語るのは面白いと評価されるし、目立つ存在にはなる。だが、その話題をオープンにしていない女の子の方が数としては圧倒的に多いと思う。

従来からファッションでは、女の子は「異性からの視線」を意識しすぎる服の選び方を避けて、「同性から」嫌われてしまう一線を超えないようにしてきた。そんな「ホモソーシャル」を生き残るためのファッションへの女の子の姿勢は、テキストになっても変わらないのである。むやみやたらにリプライやDMを飛ばしまくって「コビ」売ってる女の子や、元カレの愚痴を言い続けたり、自撮りをTwitterにアップするような「痛い」女は、やはりミュートされるのだ。

そして一方で、さらりんのように、見た目がギャルなのに、まるで2ちゃんねるのオタクのような、純潔処女信仰の持ち主もいる。これなどは、ファッションだけでは「異性からの視線の受容の仕方」を判断できなくなってきていることの事例だと思う。

 

そこで、最後の質疑応答では、こんな質問をしてみた。

 

:「今はもう、外見やファッションによる他者との差別化、それによるアイデンティティの確立が難しくなっています。一方で、SNSが広く使われるようになり、読モやブロガーも増えて、文化の消費の中心がインターネットになってきています。そのことも踏まえると、個々を差別化するものはテキストになってきているのではないでしょうか?」

 

宇野:「単純に、g.u.やFOREVER21などのファストファッションの台頭や、渋原系などのジャンルの越境によって、ファッションに対して以前なら100の力を傾けていたものが、50の力で済むようになった。カジュアルダウンした。ということだと思います。残りの50がテキストであるというより、必修科目が一つ増えたといった感じでは……」

 

現在は、それぞれが自分のスタイルに合ったファッションやネットの使い方をするようになってきている。ギャルと不思議ちゃんを隔てていた壁は、彼女たちがインターネットを手にしたことで少しずつ崩れ始めているのかもしれない。「女の子が、女の子として、どうあるべきか」——ギャルと不思議ちゃんという二項対立から始まった女の子たちの戦争は、これからもどんどん変わっていくのだろう。

(了)

 

*1:一方で注意しておきたいのは、渋原系の流行を筆頭にファッションジャンルが越境してきていることは事実だが、それぞれのブランドが置かれるジャンルの位置は何も変わっていないことだ。それぞれのブランドイメージは、今でも確実に女の子の間で共有されている。数人の女の子に聞いたところ、一番雑誌を読んでいた中高時代に、特定の一つの雑誌を読むというよりはジャンル問わず何冊も読んでいた子が多いことも分かった。ジャンルを超えたブランドイメージの共有は、この過程でなされてきたのかもしれない。

*2:もちろん、同じ雑誌を読んだり、同じブランドの服が好きな女の子同士がまとまりやすいという現状は、依然として変わっていない。入学式の日、喋ったことのない女の子に話しかけるなら、やはり近いジャンルの子を選ぶだろう。女の子とは、外見でなんとなく雰囲気が分かる、便利な生き物だ。

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