2012年11月、アメリカ・チャールストン。マジック・ザ・ギャザリング(以下MtG)のグランプリ会場で、ある日本人選手が奮闘していた――。

青白緑のコントロールデッキを使った彼の成績は、4勝2敗、ベスト32。大会賞金によって生計を立てるプロとしては、特別な成績ではない。だが注目すべきは成績ではなく、彼のデッキだ。彼は現地入りするまで別のビートダウン系デッキを使うつもりだった。

ビートダウン (デッキ) – MTG Wiki

だが情報収集の結果、彼はそれが悪筋である可能性を知る。そこから彼は日本にいる友人にメールをして、勝ち筋のあるデッキのカードリストを手に入れ、現地の知り合いからカードを借りた。当然実戦経験はない。使い方は日本の友人からネット経由で教わった。

選手の名前は中村修平。日本きっての国際的MtGプロプレイヤーにして、世界のトッププレイヤーが名を連ねるチーム「Channel Fireball」の一員でもある。彼がチャールストンでカードを借りたのも、現地にいた同チームのメンバーからだった。

MtGの世界選手権優勝賞金(2012年)は4万ドル。世界をまたいで年に数回開催される「プロツアー」でも、総額20万ドルを超える。中村はそうした世界を旅しながら賞金を稼ぐプレイヤーの一人だ。無論、プロプレイヤーはごく一部だが、この賞金で生計を立てるプロも多数存在する。町のおもちゃ屋で買えるカードのパックは、今や世界の強豪と繋がっている。

なぜMtGとインターネットの関係を紐解こうとする記事が、チャールストンの大会から始まるのか? それは、ここまでの中村のエピソードに、MtGが現在直面する変質が凝縮されているからだ。始めは単純なトレーディングカードゲームとして構想されたこのゲームは、いまや高度な「競技化」の流れの中にある。その裏にあるのは、インターネットの影響だ。そう、1993年に数学好きのアナログゲームオタクがこのゲームを創りだしてから、今年で20年。その間、インターネットは世界を変えた。MtGもその例外ではないのだ。そればかりか、MtGというゲームの遊び方は、インターネットの存在を前提としたものにすらなってしまった。

以下では、MtGがネットによって変質した4つの事例を時系列に沿って語る。それは、この20年におけるMtGとインターネットの、対立と融和、そして共存の歴史である。

 

メタゲームを変えたインターネット

塚本俊樹。1996年、国内初の国別選手権で、最初の日本王者に輝いた男である。彼は当時低速デッキが主流だった環境に、「ネクロディスク」と呼ばれる高速展開型のデッキで挑み優勝した。このデッキは、インターネット経由で海外から持ち込まれたデッキだった。

塚本は当時渋谷にあったカードショップ「オフビート」の店長であった。オフビートで日本選手権に向けて調整を行なっていたうちの一人、鶴田慶之は、調整期間の短さをインターネットを使って海外からネクロディスクの情報を持ち込むことで解決した。当時インターネットの国内世帯普及率はわずか3.3%。明らかにネット上の情報は「持てるもの」のものだった。ここでネクロディスクの強さに触れた塚本と鶴田は、日本選手権にこれで挑むことを決意。結局オフビートで調整を重ねたこの4人のうち、3人が日本代表として世界へ羽ばたくことになる。

彼らが行ったことは、一言で言えば「情報格差」の利用である。この事前の情報戦を「メタゲーム」と呼ぶ。メタゲームの概念を抜きに、現代のMtGを語ることはできない。例えば、あなたがじゃんけん大会に出たとする。もし周りがグーチョキパーのどれを出すか事前にわかっていたら、優勝は決まったも同然だ。MtGでは、プレイヤー達の個々のプレイにおけるカードさばきが熟練して拮抗すればするほど、デッキ構築における”じゃんけんゲーム”の要素が勝敗に大きく影響を与えていくのである。

とはいえ、オフビートの4人は、日本国内の環境と海外の環境の差に気づき、それをアドバンテージにしただけだ。グーチョキパーのいずれでもない、ジョーカー=ネクロディスクをネット経由で知り、メタゲームに勝利しただけのことである。しかし、インターネットという情報格差を縮減するツールの普及は、メタゲームをより高度な読み合いへと変えていく。

 

メタゲームの高度化と競技化の進展

「プロスブローム」と呼ばれるコンボデッキがある。1997年にプロツアー・パリで花開き、MtGで最初に実戦レベルとなったコンボデッキと言われている。翌年も世界的に大流行し、98年に東京で開かれたアジア太平洋選手権で石田格が使い3位に食い込んだ。パリで陽の目を浴びたデッキが東京で猛威を奮った影には、「The Dojo 」というウェブサイトの存在があった。

1995年、ネットの片隅で小さく産声を挙げたそのサイトは、当初メーリングリストやUSENETでなされた議論をアーカイヴするだけのサイトだった。それが、やがて大会上位者のデッキリストを公開するようになり、それをコピーしたプレイヤーが大会上位に食い込むようになると、「Dojo 効果」と呼ばれるようになった。コピーデッキを巡っては、「デッキ構築の楽しさを奪う」「デッキ構築も実力のうち」といった議論が巻き起こった。当時を知るユーザーなら、「Dojo 問題」と呼ばれた熱い議論を記憶しているはずだ。

しかし、結論を言ってしまえば、議論の決着が付く前にコピーデッキは当たり前のものになった。あくまで対戦するのはプレイヤーであり、「なんのデッキをコピーするか」まで含めて、実力という認識になったのである。そして、メタゲームの高度化が生じ、同時に競技性の向上が起きた。友達と遊ぶカジュアルプレイヤーと世界をまたにかけるプロプレイヤーの距離は、ネットを通じて近づき、同時に遠ざかった。MtGのパックを初めて買った少年が、その日のうちにMtGのすべてのカード情報にアクセスできる一方で、世界の裏側では(あるいは隣の家では!)その情報をもとに次の大会に向けて調整を続けるプレイヤーがいる。

そう、かつてオフビートで起きた光景は、今や世界中で見られる姿になったのだ。インターネットは、横(プレイヤー人口の拡大)とともに、縦(競技の高度化=実力の格差拡大)にもMtGの世界を広げたのである。

ちなみに、The Dojo は2001年に閉鎖されている。理由はいろいろあるだろうが、何よりもMtGの製造元であるWizards of the Coast(以下WotC)が自ら大会結果やデッキ考察記事を自社サイトで配信し始めたことが大きかったはずだ。大会上位者のデッキリストに興味があるプレイヤーは、大会で勝つことに興味がある。WotCからすれば、「ロイヤリティの高い」優良顧客だ。彼らの望む情報を提供すれば、大会がより盛り上がる。大会が盛り上がれば、より参加者が増え、競技としての魅力が高まり、MtGの魅力も高まる。公式自らが、MtG全体を取り巻くエコシステムの一部として、Dojoを取り込んでしまったとも言えるだろう。

かつてその是非を問われた「Dojo 問題」は、おそらくMtGというゲームの転換点における混乱に過ぎなかった。しかも現在から見れば、その転換はインターネットという情報拡散ツールの本質に根ざすもので、Dojoという一サイトの倫理を問うて済む話ではなかったと言える。

 

「中心」なきMtG

ここまで、ネットがMtGの競技化を推し進め、メタゲームを激化させていく姿を語ってきた。では、そのような変化は、プレイヤーたちのあり方にどのように影響したのだろうか。

Dojo閉鎖から2年後の2003年3月、MtG10周年となる節目の年に、渋谷のDCIジャパントーナメントセンターが閉鎖された。間違いなく日本のMtGにおいて「聖地」の一つであった同センターの閉鎖は、衝撃であった。同センターは各国の公認MtG大会運営を仕切るDCIの日本支部で、日本選手権・The Finals といった国内最大規模の大会が開かれてきた場所でもある。

MtG黎明期、渋谷は国内でトーナメント上位を目指す競技志向のプレイヤーが集う場所だった。国内屈指のデッキビルダー・ブレーンとして活躍した石田格も、渋谷に集うメンバーの一人だった。しかしMtGの競技性が高まり、ネットや携帯電話が普及する中で、MtGの「中心」が渋谷であること、むしろ「中心」が存在する必然性自体が薄れていく。

神奈川や千葉・大阪など東京以外でも活発に大会が開かれるようになった。また携帯電話があるため、誰かがいる「かもしれない」場所に足を向けることなく、友人らとアドホックに時間と場所を決めて集まることが容易になった。場所にプレイヤーが紐づくのではなく、プレイヤー同士が直接繋がれるようになった。冒頭に挙げた中村修平などは、日本にいる期間より、海外にいる期間のほうが長いとも言われる。2000年ごろから、日本でもチームを組んでデッキの研究・対戦(ドラフトなどリミテッド環境も含む)を行い、大会上位を目指すスタイルが増えていった。

また、ネットオークションの普及も大きかったはずだ。トレーディングカードゲームは、その名の通りプレイヤー同士がカードを交換し合いながら、自分のデッキを構築していく想定で作られたものだ。しかし、ネットオークションの普及は、欲しいカードを得るため、ユーザー同士が直接に繋がり、売買できる環境をネット上に作り上げてしまった。

ネットは、様々な情報をオープンにして、人と人を繋いでいくメディアなのだ。そうなるとその先、つまり情報が行き渡ったことによる環境の変化を仲間内でシミュレーションすることが重要になる。チームを組んで、クローズドな「擬似環境」を作る必要性が高まったのである。インターネットの普及は、競技性の向上とチームシステムの浸透を促し、結果的にMtGから「中心」を奪い、フラット化を促した。

中心が解体され、場所を超えたチームが求められる時代へと変わっていく――渋谷DCIの閉鎖は、その象徴だった。

 

これからのMtGと、インターネット

そのようなプレイスタイルの変化で、日本のMtGが現在直面している問題を、最後にひとつ取り上げたい。それは、「言葉の壁」である。ネットが普及したことで、むしろこの壁は、高く厚くなってしまったのだ。

現在、日本国内の大会結果は、都内以外の中小規模の大会結果ですら英語に翻訳され、情報が海外に漏れ伝わっている。日本人が今どのような「環境」に身を置き、どういうデッキを使おうとしているのか、極めて細かい粒度で情報が伝わっているのだ。それは日本の情報を英語で求めるプレイヤーのニーズが非常に多いことに由来する。他方で、日本語のニーズは当然英語より少ない。

つまり、英語でアウトプットされる日本語圏の出来事に比べて、日本語でアウトプットされる英語圏の出来事は、相対的に情報量が少なくなっているのだ。その格差は、ネットが普及すればするほどに拡大していく。この言語の壁が依然として横たわっていることがわかったのが、日本人最高位が28位と低迷した2010年の「プロツアーアムステルダム」後のことである。

Feature: 日本勢は、なぜ勝てなかったのか。|マジック:ザ・ギャザリング

情報が高い精度で海外勢に漏れている以上、プロツアーなどの国際大会で日本勢がまとめてメタゲームの対象となり、対策される可能性がある。インターネットがもたらしたメタゲームの激化とチームシステムの浸透は、国内の情報共有を阻むという点で、ネットが促進したもう一つの流れ=グローバル化と相反する面があるのだ。

そうした中で、上記の記事で取り上げられているのが、「デッキビルダーの不在」という、日本では長く続く深刻な問題だ。現在求められるスキルは、誰もが目を引く鮮やかなデッキコンセプトを一から作り上げるものではなく、(メタゲームの)均衡を打ち破るための1枚をデッキに仕込むスキルなのである。シルバーバレットが必要なのだ。

ここで興味深いのは、翌年の2011年、世界選手権を制した日本人の彌永淳也だ。その世界選手権期間中、彼は「Channel killer」の二つ名を手にすることとなった。彼のオリジナルデッキは、(冒頭で紹介した)中村も所属するグローバルチーム「Channel Fireball」が選択したデッキに非常に強く、上位に食い込んできた彼らをなぎ倒し、そのまま頂点に立った。この時、Channel 勢4人がベスト8に食い込んだが、彼らのデッキはすべて全く同じデッキだった。彌永は独自のチューンでデッキを組み上げ、Channel 勢の猛攻を食い止めた。グローバルチームの躍進と、環境で一歩抜け出す個人の才がぶつかった大会であった。

他方で、彌永は Twitterを利用して自ら新しいつながりを作り、練習の場所を作ろうとしている。私見では、彼が作ろうとしているのは、従来のチームよりも、アドホックな繋がりによって生成される切磋琢磨の場である。今後、このような形でチームという概念を再構築し、グローバルな情報格差に対抗しうる新たな情報の流れを作ることが、日本のMtGにおける一つの流れだろう。ネットがもたらした変化とそれによって生まれた壁、それはネットによって打ち破ることはできるのだろうか。

 

 

(了)

 

※記事中でも取り上げた、石田格選手が今年の1月亡くなった。33歳という若さだった。僕自身は渋谷のDCIセンターでスイスドローの下の方の席から上位陣の席にいる彼を見た記憶が思い出せる程度だが、メディアを通じてその活躍は常に追っていた。ご冥福をお祈りします。

追悼 石田格さん : Daily MTG : Magic: The Gathering

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klov

klov

ウェブメディアでリサーチ/ウェブ解析を担当。ねとぽよではライターやウェブ周りのディレクション。

GoogleやFacebookなどのプラットフォームの話題を追いつつ、日本独自のインターネットについて考えています。

 

 

▼活動履歴▼

2006年~ はてダ「No Hedge!」開設。村民となる。
2007年~ 批評系同人誌「筑波批評」に参加。Webや建築系の批評を寄稿。大二病、進行。
2011年~ 「ねとぽよ」に参加。最初はフリーペーパーにちょっと文章を書くだけだったはずが、いつのまにかウェブメディアを作っていたり。