ねとぽよ文学班の笠井です。

 少し前に、こんな記事を書きました。

 

ラブストーリー・オン・ライン――記録技術による恋愛の千年史

 

 インターネットで見られる恋愛のあり方を、平安時代に遡ってたどろうとした記事です。

 今回は、ポータブルなラブストーリーの祖先を訪ねるべく、「お江戸」に向かいます。

 きっかけは、和風ロック。スマートフォンで視聴した1曲の恋唄でした。

 その作品の源流をさかのぼっているうち、気づけば和本の出版事情を調べていた僕がいました……。

 

和風ロックなボカロ小説

 

 まずは、こちらの楽曲をご覧ください。

 

 

 

 歌い手「重音テト」のハスキーボイスと、三味線の音、障子越しに彼女の赤黒い髪へ差す夕日が、薄ぼんやりしたエロさを作り出している作品です。

 人気のボカロ楽曲の例に漏れず、『吉原ラメント』は書籍化もされています。「吉原遊郭」へ身売りされた10歳の女の子「花紗音」が、周囲の助けを借りながら成長し、人気の「女郎」に昇りつめ、大好きな男の人に「身受け」されるまでを描いていて、原曲の歌詞「偽りだらけの恋愛」「吐息「あっアッ」と鳴かせて」などに、種明かしの物語を添えています。

 

吉原ラメント  

 

 この曲だけでなく、ボカロ楽曲には「遊郭もの」が多くあります。どの楽曲も、囚われの身から逃れられない女の子が、「遊郭」という嘘の愛を演じる職場で、口に出せない恋心や孤独を抱えて、寂しく暮らす心中を歌っていました。ニコニコ動画の中の人の話によると、「VOCALOID和風ロック」というタグでまとめられるほど、多彩な作品群が生まれているとのこと。

 

Nem「紅白曼珠沙歌」:「遊郭ものなら…」と友だちが教えてくれた楽曲。

 

スコップ「指切り」:最近は「ムラサキから」の人が多いんですね。

 

でか大(挫折P)「百歌繚乱」:ニコ動のすべて(だいたい)が勢揃いで和装している……?!

 

 言ってみれば、レトロモダンな表現を好む少年少女たちが、増えているみたいなのです。これは少し変わった出来事なのかもしれません。はじめて視聴したとき僕は、「また謎の文化と出会ってしまった……」と戸惑いました(同時代文化にきわめて疎いからです)。

 VOCALOIDは、世代や国境を越えて楽しまれている、巨大な文化インフラです。なのになぜ、「遠い昔」の「性産業」を舞台にした「孤独な芸能人」の「嘘の恋愛」や「寂しさ」が歌われているのでしょう。

 僕がVOLCALOID和風曲を視聴していると、世間で言わゆる「ITっぽさ」とは別の表現が育っていると思えてならないのです。iPhoneやWindows8のように、簡潔で平淡なデザインとは逆向きの、華やかでキラキラした表現が。

 

表現型の進化動態

アヴァン・ポップ 増補新版

 

 思い返せば、この10年で「ウェブ小説」の表現型もすっかり変わりました。00年代には、「ウェブ小説」というとテキストサイトの匿名投稿やケータイ小説、『電車男』など実録調の掲示板小説、「やる夫」スレなどがホットトピックでした。それが今では、「小説家になろう」出身作家が続々と商業デビューを果たすようになり、Pixiv小説では「ちゃんねる系」二次創作が盛んで、英語圏では「Kindle Worlds」という公認ファン・フィクション投稿サービスまで出来ています。ボカロ小説も、2年ほど前から新潮流として注目されていますね。その流れのなかで、「遊郭もの」をはじめとする「和風ロック」がニコニコ動画にも誕生して、頭角をあらわしています。

 

 もちろん、「ウェブ小説」がどれほど広く人気なのかには注意深くあるべきです。知人の高校教諭が新学期に、学生たちに簡単な読書アンケートを取ったら、意外にもライトノベルが好きな子はほとんどいなくて、星新一だとか森見登美彦といった「定番」を挙げる子ばかりで驚いたと言っていました。たしかに書籍や音楽は、お米や醤油とちがって、万一なくなっても暮らしには困りません。人気の広がりはまだらで、いつだって限られた地域のひと握りの人たちが夢中になるもの。これは娯楽文化の宿命みたいなものです。

 

 ただ、狭い範囲でしか楽しまれていない表現が、同時代の表現に共通する美点をまとまった形で体現していることは、十分にありえます。だとすれば、よく似た複数の表現型の由来を調べることで、それぞれに共通する「時代の空気感」がおおまかにつかめるでしょう。それが分かれば、僕たちの現代文化や情報環境のこれからにも、大まかな見通しが付けられる。

 そこで僕は、「遊女」の表現にどんな個性があるか調べたうえで、「吉原」や「花魁」といった恋愛のモチーフが現れやすい風土を探ってみることにました。

 集積産業化された性労働である「遊郭」が、日本史上に出現するのは17世紀以降。芸術表現のモチーフになるのも、この頃です。だから、その当時の日本文化がどうあったか調べることで、ウェブカルチャーの世界に「遊女」がすーっと舞い降りて来た背景が分かるかもしれないと思ったのです。

 

好景気と文学っていうか

さくらん (イブニングKCDX (1829))

 

 江戸文化の入門書にはたいてい書いてありますが、江戸のはじめ頃に生まれた「遊郭」は文化拠点のひとつでもあって、高級な「遊女」は幅広い教養を持っていました。先端文化の体現者だったのです。

「遊女歌舞伎」というものもあり、吉原の遊女たちが男装して(!)、平安時代のラブストーリーを歌って踊る演劇が「明るくて楽しくてエロい」と町人たちの間で話題だったとか。すぐに幕府に禁止されてしまいますが、女性アイドルグループの遠い起源に、「会いに行ける遊女たちの歌劇」があったなんて、びっくりしますね。

(このあたりは高野敏夫「遊女歌舞伎」に詳しいです。CiNiiで論文が無料公開されています。当時のふんいきを気軽に味わうとしたら、時代小説集「吉原花魁」がぴったりでしょうか)

 

 ちなみに、関が原の合戦後から元禄時代あたりまでは、「江戸時代」でも最高の経済成長期。新興企業が生まれては潰れて、を繰り返していました。その原動力となった畿内・京都の商人たちは、旧時代の規制や伝統から自由でした。もちろん新しい文化も生まれました。それらは古い文化のパロディとリサイクルを原動力にして育ち、裕福になった商人たちに愛されていた。

 

Boy’s Sex in the City

好色一代男 (中公文庫)

 

 そんな時勢にあって、彼ら商人たちに愛され、彼らの暮らしを作品にした著者がいます。

 井原西鶴は、今にたとえると、「アルファツイッタラーがウェブ小説に転向して一発当てたうえに新ジャンルを作っちゃった」ような書き手です。手間をかけて調べたのに概要はWikipediaにすっかりまとまっていて悲しかったんですが、表現史からいえば彼は、「俳諧」の成熟期と「浮世草子」の黎明期を生きた男です。

 

 面白いのは、彼がコミュニケーション消費からコンテンツ消費へと叙述の場を移していったことです。しかも一説によると、「井原西鶴」という”アカウント”もまた、複数人で運営されていたかもしれないんだとか。背後には近代出版制度の普及があります。木版印刷が産業になり、貸本屋が流行る。寺院が文化サロンの保護者になって、寺子屋が都市民の識字率を上げます。飛脚と巡廻船のネットワークが、都市の流行りを地方へ、地方の特産品を都市へ流通させるようになり、それと一緒に「物語」が持ち運ばれてきました。

 するとどうなるか。平安貴族たちが作っていた「暗喩と模倣でおしゃべりする恋愛」が、そのままスケールするのです。意識の高い武士や金持ちになった商人、遊び好きな僧侶を中心にして、各地に知識人コミュニティが育つ。印刷書籍の買い手になる。文芸空間が全国の都市に繁殖するわけです。その勃興期が17世紀の半ばから終わりごろにありました。

 要するに「放課後インターネット」の全国支部ができつつあったわけで、松尾芭蕉はそこを旅していたらしい。まるでアイドル歌手が地方巡業をするみたいに。やがて芭蕉は「俳諧」にコンテクスト消費を持ち込んで、ひとつの文章芸術に育てあげました。

 

 対する西鶴は、芭蕉とほぼ同世代でありながら、添削指導や批評をする一方で、マンネリ化していく「俳諧」の醍醐味を、一晩で大量に句を詠むパフォーマンス「大矢数」でやり尽くし(「射てみたが何の根もない大矢数」)、翌年に連載官能恋愛小説『好色一代男』を刊行するに至ります。Twitterのネタクラスタが炎上で有名になって、印刷書籍の著者に転身していくように、彼は短文芸術から長文芸術へのコンバートに成功したというわけです。羨ましい。

 

遊女に託されたファンタジー

風俗行ったら人生変わったwww

 

 それでは、西鶴はどんな恋愛を描いたのでしょうか。代表作である『好色一代男』を読んでみましょう。

 この小説は、深夜のテレビドラマみたいな連作のラブコメディです。生まれつき性愛の才能に恵まれた男(の子)「世之介」が、7歳から60歳になるまでに、3742人の女(!)と725人の男(!)と、さまざまなシチュエーションでエロいことをして遊び歩きます。「ぼくが考えた最強の自由恋愛」の事典を作ろうとしているようで、恋愛小説の元祖は、西欧ならルソー、日本なら井原西鶴だといったところでしょうか。読後感は、xvideosで休日の半分を過ごしたときの気分に似ていますね……。

 私訳の意訳ですいませんが引用すると、

 

「都をば花なき里になしにけり吉野は死出の山にうつして」とある人は読んだ。吉野は死後にまで名を残した太夫、前代未聞の遊女である。どれ一つとして悪いと言うべきところがない。第一、情けが深い。
 七条通に駿河守金綱という小刀鍛冶の弟子がいた。吉野に惚れて、(伊勢物語に言う)「人知れぬ我が恋の関守」は日々の仕事にぶっつけて、(小刀作りを)五十三日に五十三本、五十三匁のお金を貯めて、いつか吉野に会える日が来るのを待っていた。
 けれども(故事に言う)「魯般の雲」のごときよすがもなく、袖の時雨(の涙)は神さまに誓ってこれだけは偽りではない。吹革祭り(の日、数少ない休日)の夕暮れに立ちしのんで、
「できないことは、できないよな」
 と、生まれもった身分をひどく嘆いていた。
 それをある人が太夫に知らせると、「その気持ちが不憫だ」と言うのでこっそり呼びよせて、思いのたけを語らせた。
 すると男は身をふるわせて前後不覚、薄汚れた顔から涙をこぼして、
「こんなに嬉しいできことは、ずっと忘れません。長年の願いもこれで果たされました」
 と、座を立って逃げ帰ろうとする「たもと」を引きとどめて、明かりを吹き消し帯もとかずに抱きしめて、

――岩波書店『日本古典文学体系 西鶴集 上』収録「好色一代男 巻五」中
「三十五歳 後には様付てよぶ よし野はこんぼんの事」より私訳

 

 稼ぎの少ない職人がいる。有名な「遊女」に叶わぬ片想いをしていたら、それを聞きつけた当人が特大のファンサービスをしてくれた。なんだかふつうにいい話ですが、理想の恋愛が、憧れの贅沢として描かれていることに注目してください。

 会えるはずもない女性アイドルに熱く恋をすること。よく考えればこれは、なかなかフィクショナルな恋愛のあり方です。生物学でいう、繁殖や性淘汰から切りはなされています。どちらかといえば、信仰に近い。

 

 通説によると『好色一代男』は、妻を亡くした西鶴が、自己救済のために書いた官能小説だと読まれています。けれどもこれを「自慰」とみなすのは性急で、「嘘の恋」が個人用のコンテンツとして楽しめるようになったと見たほうがいいですね。性愛が、コミュニケーションツールではなく、語り手(≒登場人物≒読者)のカタルシスに使われているのですから。「小説家になろう」で人気の小説たちの、遠い祖先にも位置づけられるでしょうか。江戸の遊郭は、平成の異世界と同じ役目を果たしていた、と。

 

コンテンポラリー・ラブ・コメディ

HER (FEEL COMICS)

 

 つづいて、『好色五人女』に収録された短篇を、吉行淳之介訳で読んでみましょう。ものすごい粗筋です。

 同性愛に夢中な男がいて、恋人だった美青年の死を嘆いて出家していたところを、彼に恋した女が男装して会いに行って愛しあおうとするのだけれど、性交の途中で女だとバレてしまった……のに、男は「恋に男色女色の差別があるものか」なんて心変わりして、ついには男色も出家もやめて、その女と結婚してしまう(!)。

 

 と、立出ると、おまんの姿に驚いて、二人の若衆の姿は消え去った。これはどうしたことか、とおもったとき、源五兵衛入道は不思議がり、
「どういう若衆か」
 言葉をかけてきたので、おまんはすぐさま、
「わたしは、ご覧のとおりいささか若衆の意地を立てております。かねがね御法師さまのことを伝え聞き、命をかけてここまで参りましたが、これはまた気の多いお方。そうとも知らず、一心に思い詰めた甲斐もない、当てはずれのことでございます」
 恨み言をいうと、法師は横手をうって、
「これは有難いお気持ち」
 と、また浮気心を起し、二人の若衆はすでに亡くなっているもので、いまのは幻である、と一部始終を語ったのである。おまんは一緒に涙をこぼして、
「そのかわりに、わたしを捨てないでください」
 法師は、感涙を流し、
「出家の身ではあるが、この道ばかりは捨て切れない」
 と、もうはや戯れかかっている。女だということを知らないのだから、仏さまもお見逃しになるだろう。

――中公文庫『好色五人女』(井原西鶴著・吉行淳之介訳)から

 ストーリーラインではやりたい放題していますが、描かれている恋心は正直もいいところですね。純愛がギャグにされている。というかむしろ、ラブコメディの形でないと、「本当の愛の物語」が描けなくなっているようです。

 

 平安貴族たちの文芸作品とくらべたとき、西鶴の恋愛小説では何が変わったのか。西鶴は「記録技術による恋愛」を、「限られた地域だけで通じるコミュニケーション」から「全国流通できるコンテンツ」に書き換えたのです。そのとき彼(ら)は、平安貴族たちが共有・記録した「虚構の恋愛」を、江戸町人たちの「笑いもの」と「憂さ晴らし」にしてしまった。

 彼(ら)は、どうしてこう書いたのでしょうか。出版市場が全国に広がるなかで、創作活動が、顔見知り相手ではなく、広く世間に向けたものへ変わったからです。だから「遊女」に託された「嘘の恋愛」は、別世界にある贅沢品であり、茶化し・冷やかすための理想として描かれるようになった。

 

ウェブも、思春期の終わりに

  インターネットを生命化する プロクロニズムの思想と実践

 

 同じことが、新しいウェブカルチャーにも言えるのかもしれません。新しい産業が育つと、そこに新しい自由が生まれます。インターネットが高齢層にも普及した今、表現規制と政治利用と「普通化」の波にさらされて、昔ながらのウェブカルチャーは退潮しつつあります。他方で、先行世代の文化遺産のハイブリッドとして「同時代文化」が芽生えてもいる。その先ぶれが、「遊郭もの」を始めとした「VOCALOID和風曲」なんだろうと僕は考えています。

 

 ウェブが歴史を欲しがっていて、なんでもゼロから始める姿勢が、かつてほどの輝きを持てなくなっているのかもしれません。池田純一『ウェブ文明論』をはじめ多くの著作が、シリコンバレー精神は、アメリカ合衆国ができて間もない頃の開拓農民の思想に由来すると論じています。自立と自由を愛し、荒れ地をゼロから耕して農地を拡げていって、収穫物を共同作業者みんなで分け合うスタンスです。

 しかし、その姿勢は流行らなくなっているわけです。それはなぜか。ややもすると日本のウェブカルチャーは、米国のギーク・カルチャーの劣化コピーにすぎないと言われがちだけれど、実は庶民文化の型で発展してきたからではないかと僕は考えています。文化の担い手は、ユーザー中心。出版・映像文化のリサイクルやカジュアライズも盛んで、JK・ggrks・今北産業などの造語に透けてみえる姿勢は、気取った感じや堅苦しい空気を嫌がる「野暮」のバリエーションだと言えなくもない。ユーザ主体で企画を立ち上げたり、無差別に広告を拡散する方法も、新しいサービスが立ち上がっていく初期に有効な運営スタイルでした。江戸前期のメディア環境に似たところを見つけるのは易しい。

 

 そして、こうした情報環境の揺れ動きが、「現代文化」に現れる恋愛の姿にも影を落としているのでしょう。これらの恋愛表現を丁寧に掘り出してやることは、じつはものすごく有意義なことなんだと思います。あと、たぶん実生活にも役立つし。

 絶賛制作中の「ねとぽよ 恋愛特集」は(8月11日発売だよ!)、そのあたりに注目した冊子になるかもしれない気がします。

 

 もちろん、VOCALOID和風曲が「江戸」をいなせに着こなしているのは、青少年向け大衆文化のルーツが時代物やポップ・ミュージックにあるからでしょう。だけどさらに遡ると、ウェブカルチャーに通底する「自由と孤独」に親しい感覚は、元禄期の商人文芸に通じるところが確かにある。それは、「古き良き日本文化が、現代の若者文化にもしっかりと息づいているから」ではありません。かつて元禄期の出版市場がそうであったように、日本のウェブコミュニティが、新しいポップカルチャーの成長期にうってつけの表現スタイルを見つけ出しているからなのだと思います。

 僕たち一般人が、「理想の恋」を個人用の娯楽コンテンツとして楽しめるようになった――その地底には、まるでインターネットのように広くて深い、国産文化の網目が根付いていたようです。似たことが現代でも起きていて、ウェブカルチャーはすでに新しいフェーズに入ったのではないかという話でした。

 

     

     

    

      

 ……そして。ウェブ小説といえば、

 いまねとぽよでは音比古さん&negiyanさんが江戸時代にトリップしてしまう女子高生の小説を連載中みたいです(宣伝協力)。

 怒涛の31日連続更新だそうです。

 恋愛譚もあるのでしょうか。続きが楽しみです。

 

妖式コンゲーム 第一話はこちら

 

 

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笠井康平

笠井康平

ねとぽよでは記者と編集のお手伝いをしています。

文芸誌「新古典派フィクションズ」の主宰で、ひっそり小説も書いています。

日本文学史とウェブカルチャーに詳しくなって、この国の歴史と文化の最適な記述法を編み出したい。