9月9日に公開したこの記事に、大きな反響をいただいています。

 

ケータイ小説が”世界最新の文学”に見えた頃――『あたし彼女』書評

 

たくさんの方から、感想と疑問・質問を寄せていただきました。回想記事だったからか、僕の日頃のネットライフが地味だからか、記事に添えられた感想には静かなコメントが多かったです。「懐かしい!」とか「ぐっと来た」という声が多く、嬉しかったです。

 

 

 

 

なお、ブーム当時から今までに語られた大半の論点は、Wikipediaに精力的にまとめられています。

 

Wikipedia:ケータイ小説

 

各論点が散らばったままで、海外事例の紹介がアフリカのそれだけになっていることなど、補遺できるところはあります。当然、それぞれの主張がどんな文脈で言われたかも、元テキストへさかのぼって知る必要があります。原意とニュアンスのちがう要約がなくはないです。とはいえこの文化を大まかに知るにはぴったりです。[出典]欄には、市販された参考文献がほとんど網羅されています。

 

ご質問にお答えします

 

というわけで、Twitterで寄せられたご質問にお答えいたします。

 

 

 

 

これはおっしゃるとおりで、1冊にかけられたコストや、小説が持つ物語の複雑さは『ディスコ探偵水曜日』のほうが格段に上です。物理的にも分厚いですしね(笑)。そのうえで僕は、比べられた作品たちが、華美と質素のどちらの美学に添っているかを考えてました。『ディスコ』は前者の、『あたし彼女』は後者の良い作例だと思います。だからかえって、両者の共有しているコンセプトが浮きぼりになるなぁと。

 

未読の方にもネタバレにならないよう説明しますと……、『ディスコ』の主人公は物語の結末で、「迷子を見つけ出す仕事を続ける」ためにある手段を選ぶのです。それは著者の、「フィクションを繁殖させること」への、矛盾こそすれ前向きな意志の表明にもなっています。対して『あたし彼女』は、物語の結末で「”あたし”が”彼女”だったのだ」と考えて、独り言みたいな物語を打ち切ってしまう。この差は示唆的です。フィクションに対する真反対の姿勢!

 

僕も調べ出したばかりで詳しく分かってないんですが、現代小説は前世紀の終わり頃からゆっくりとその方向へ舵を切りつつあるようです。「書かないこと」ではなく、「書くこと」を根底的なコンセプトとした作品が、世界中で増え始めています。「『あたし彼女』はポストモダニズム文学の終わりを~」と書いたのも、そんな思いつきからでした。それがいつ頃のことなのか、びしっと証明できたらかっこいいんですけどねぇ。

 

 

 

 

 

まずは「言葉の横滑り」について。はい、これはご指摘のとおりです。「アキ」の口癖は、第一義に「うまく言えなさ」の表れでしょう。そしてまた文中で「みたいな」は、語り手「アキ」のうらぶれと落ちつきを示すバロメーターにもなっている。

だから、物語の途中で「トモ」視点での挿話が挟まれていることの効果が高まっている感じがします。あの章は、「著者と読者の擬似的な1対1関係」を作中にもうひとつ作ることによって、「言葉の横滑り」を押しとどめる役目を果たしています。そう読んでしまってよいだろうと考えています。あと全然関係ないんですけど、『もののけ姫』の終盤で、山犬たちが遠吠えでお互いを呼び合う場面で、アシタカが「答えた!」って叫ぶくだりが好きです。

 

それから、「ケータイ小説作家は育たなかったのか」について。文学におけるハイファッションの世界では名前も上がりませんが、人気著者としてシリーズを書き続けている方もいますよ。もっともいまの日本では、「作家が育つこと」のニュアンスがちょっとずつ変わっているんですよね。「作家」がごく少なかった明治・大正時代に比べて、平成の作家数は何百倍も多いし、「作家ではなくなる人」や「作家になれない人」の数も増えています。ぶっちゃけ戸惑ってます。

 

でも僕は、むしろそのこと自体が、日本文学史の普及と多様化を示しているとさえ言いたいくらいです。その日の空腹を満たす、ちょっとした手料理みたいな物語が誰にでも作れること。しかもそれが、大金を払ったり、文章修行を何年も積まなくてもできること。このことにはポジティブな意味がまちがいなくあります。それがこの国の長い文学史にどんなインパクトを与えたのか。今後もじっくり調べてみるつもりです。

 

詳しくは、『ねとぽよ 恋愛特集』所収「ウェブロマンスに疲れたら読みたい日本の恋愛の約20冊」と、「新古典派フィクションズの説明書」に書いています。よろしければ!

 

 

 

 

うーむ。これは「ユーザ層のちがい」かもしません。日本ではAmazonの感想が荒れがちで、ブクログや読書メータは絶賛が多めなのも、これと似ていて面白い現象ですよね。誰か調べてくれないものか。

 

とはいえ世間によく言われる「ヤンキー/オタク」「DQN/サブカル」「都会/地方」の二項対立ではなくて、ふだんからインターネットをどれだけ使い込んでいるかの差なんだろうと思います。ケータイ小説の読者たちと比べると、掲示板小説の読者たちにはSNSで活発に情報発信する人が多くて、やっぱり目立つし、声が大きくみえます。だから掲示板小説に肩入れした言葉が、たくさん出回っている印象を受けやすいのだろう、と。

 

それに元々、ワンクリックで異文化圏へ飛べてしまうインターネットだから、何かコメントを書くときには嫌悪感や熱狂が先立ってしまいがち。しかもそれが当人にすぐ届くのが……たまにはいいけど、毎日は疲れる……。

そろそろがっつり評論が書かれていい頃合い

 

 

 

第二次ブームの最中には、ケータイ小説をめぐって十数点の新書が刊行されました。

その後も散発的に学術論文が書かれていますが、まとまった学術書はまだ出ていません。

この方と同じことを僕も4年前に感じていて、ようやく先の書評が書けたばかり。その後につぶやきましたが、

 

 

 

それでこの話はおしまいにするのはもったいなくて、ここからさらに、「ウェブ小説の大きな流れからみて、ケータイ小説はどういう文化だったのか」を論じていくことにはそれなりの意味があるだろうと僕は思っていて、論点は大きく2つに分けられるだろうと見込んでいます。

 

ひとつは僕が先の書評で書いた、20世紀文学の系譜に接続するもの。この文化をストックされたコンテンツ群と見たうえでの、現代文学としての美学的評価です。情熱さんのこのpostが正鵠を射ています。

 

 

 

ふたつめは、この文化の担い手たちがどんなリアリティを抱えて生きているかを調べること。斎藤環『世界が土曜の夜なら』が好例です。この文化をフローなコミュニケーション群とみて、利用者たちの消費作法を論じること。

とはいえ小難しい話でもなくて、この方がつぶやいてくれたように、

 

 

 

この文化を間近でor遠くから体験した方々の、当時の思い出話を拾い集めていくのがいいんだろうなぁ、と思います。

ケータイ小説はその後どうなったのか

 

 

 

この感想、とてもありがたいものでした。今後に『あたし彼女』のような作品が現れることはおそらくほとんどありえないだろうし、一般には、ケータイ小説は、一過性のブームとして終わったと思われているからでもあります。巨視的に、冷静に言ってしまえば、ケータイ小説界では既存の出版分野のドレスダウンと、インディ文芸のブラッシュアップが行われていたわけですから、評論が出尽くしたあとには次第に話題にならなくなっていきました。文芸書のオルタナティヴとして論じられることも、奇怪な社会現象として論じられることも、なくなってきましたね。

 

とはいえ、かつてケータイ小説と呼ばれていた書籍群は、地方書店を中心に今も根強い人気があります。部活帰りの女の子が、独りでこっそり買いに来ていたり。

初期から活動していたスターツ出版に加えて、集英社ピンキー文庫、主婦の友社、双葉社、アルファポリスなどいくつものレーベルが参入しています。E★エブリスタ、ベリーズ・カフェ、Pixiv小説、ブロマガなど後発のテキストメディアへも著者の引越しや読者の移動が起きていて、利用者の好みによって多様な作品が作られ続けている。

twitterで「ケータイ小説」と検索してみると、その様子が垣間見えて面白い。(「あたし彼女」で検索すると、悲しい恋をしている女の子たちがわらわら出てきます……)。

 

最近書かれたなかから作品もいくつか紹介しますと、ドキドキしたい人には「家政婦さんっ!」を。茫然としたい人には「彼氏ゎ赤ちゃん」を。ハラハラしたい人には「暴走族総長★彼氏様」をおすすめします。ジャンルフィクションを読みたい方は、「E★エブリスタ 電子書籍大賞」や「日本ケータイ小説大賞」のラインナップをご覧ください。それぞれに文体や物語の棲み分けが生まれつつあります。

 

大きく言って、そろそろ「安かろう・悪かろう」の域を出る頃だろうと踏んでいます。大正時代の終わりごろ、大衆小説の黎明期に、自身も実作者だった白井喬二が、文学者たちに「十年批評するなかれ」と書いていました。僕みたいな無名の素人が何を生意気に言っていやがるという話ですが、同じことはケータイ小説文化にも言えるはず。やがてここから吉屋信子や瀬戸内寂聴が現れるかもしれないし、少なくとも『あたし彼女』は書かれたし。

しかも、20世紀の文学環境とは大きくちがって、そのように優れた著者が数百人の単位で育つことだってありえます。現代芸術家の村上隆が折にふれて「若手アーティストをたくさん育てて、世界の現代美術マーケットへ大挙して攻め込みたい」という趣旨の発言をしています。日本の現代小説もそうあってほしい。

 

「ケータイ小説的なもの」は、海外でも国内でも広がっています!

 

というのも、わが国でのブームから数年のタイムラグがありつつ、海外でも先進各国を中心に「ケータイ小説」と近似した文化現象が生まれているのです。

 

分かりやすい例は、中国の「80后世代」以降の一群でしょうか。日本にも郭敬明や春樹が翻訳されて、紹介されています。彼らの小説は、上手くはないが、下手でもなかったので、出版市場が成長していた中国国内で、若年層を中心に多くの読者を獲得しました。彼ら自身は伝統的な文学賞や、同世代たちが主宰する文芸誌からデビューしています。けれども題材や文体は、日本のケータイ小説とライトノベルの合間くらいのところを突いていて、その後の作風の揺れも含めてなかなか面白いことになっています。

 

また、彼らに影響を受けたウェブ小説家たちが、「90后世代」と呼ばれる群集を作っています。こちらもまだまだ若い表現ばかりのようでしたが、ポテンシャルとしての文芸スキルはものすごいものがある。

その原動力となっているのは、(たぶん)僕と同世代の方々がケータイ小説について話してくれた、

 

 

 

こうした静かな熱気にあったのだということは、すでにこの10年が証明したことではないでしょうか。利用するウェブサイトや参考にする物語がちがうだけで、どの表現にもそれぞれに切実なものがあったのだと思います。ストーリー・テリングの快感をカジュアルに楽しめる意味でも、胸をふさぐ鬱憤を吐き出せる意味でも。

かく言う僕も「乗り遅れた読者」です。この文化を初めから楽しむには年をとりすぎていて、遠くから見届けるには幼かった。それでもケータイ小説サイトは、文章を読み・書きはじめた頃のことを思い出させてくれる場でした。

だから、朝Pさんがつぶやいてらしたように、

 


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と感じている方の手元にも数十年後に、「一見するとケータイ小説にはみえないし、よく読まないとそうだと気づかないが、しかし確かにケータイ小説の直系の子孫である傑作の海外文学」が届けられるかもしれない。

同じことは、ねとぽよでこれまで取り上げてきた同人小説文化にも言えるはずです。現に僕の同世代の著者たちは、ウェブネイティブ第一世代であることを武器に、すでに商業文芸市場へ乗り出しているのですから。

 

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笠井康平

笠井康平

ねとぽよでは記者と編集のお手伝いをしています。

文芸誌「新古典派フィクションズ」の主宰で、ひっそり小説も書いています。

日本文学史とウェブカルチャーに詳しくなって、この国の歴史と文化の最適な記述法を編み出したい。