「寺山修司はARGをやりたかったのではないか」――ワタリウム美術館で開かれた「寺山修司展『ノック』」を見終えて、僕が真っ先に抱いた感想である。というわけで以下、少々電波気味だと怒られそうではあるが、この展覧会の、ごく個人的な感想を記したい。

 

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展覧会の様子(ワタリウム美術館からいただきました)。 

 

寺山の軌跡~都市の抒情詩人からエログロナンセンスへの傾倒

 今回僕が行ったのは、東京都渋谷区にあるワタリウム美術館で行われた、寺山修司の歩みを回顧する展覧会だ。

 彼の少年時代からの創作物などが展示されており、中学、高校、と彼の歩みを追いかけていくことができる。中学時代のコーナーには、寺山の通信簿も展示されており、国語の成績だけが良い(ただし、最高評価というわけでもない)という、寺山の当時を偲ばせるものもあった。そして、大学時代以降のコーナーに来ると、ラジオドラマから物語の世界に入り、29歳で映画の世界に踏み出し、小説やエッセイで時代の寵児となっていく、あの私たちの知る寺山の姿が見えてくる。

 アバンギャルドな作風で有名な彼だが、彼はよく知られるように青森の田舎出身で、初期作品は東北出身の僕が共感するような、「上京者」のセンスを持った詩人でもある。「新宿は荒野だ」と語ってもいる。

 

書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫)

 

 しかし、そんな寺山は東京という都市空間で徐々に、キッチュな物語・映像作家へと傾いていく。今回の展覧会で、僕は当時の『書を捨てよ、街へ出よう』の表紙が横尾忠則だったことを知ったのだが、まさに彼はそうしたセンスへと傾倒した表現活動へと向かっていくのだ。実のところ、その手つきには、江戸川乱歩のような作家と比べると、難解なパロディのような印象を受ける。しかし、僕は彼がそのような表現を求めた理由はわかる気がした。

 

閉ざされた心を「ノック」せよ

 というのも、その次にあったのが、今回の展覧会の目玉である「ノック」についての展示だったからだ。「ノック」とは、寺山修司と「天井桟敷」により、1975年4月19日、午後3時から翌日午後9時までの30時間、東京、阿佐ヶ谷付近で実施された市街劇だ。地域全体で、仮装した演者たちが演劇を行い、ときに観客を巻き込んでいく。知る人ぞ知る、寺山の伝説的な劇だ。

 当然、そこで起きている劇の全貌を見渡せる人間などいない。演者や寺山自身も、当時はUstreamやTogetterのような便利なものはなかった以上、当然一望できてなどいない。ステージという限定された空間に観客の視線を集める、近代演劇とは全く発想を異にしているのだ。実際、展覧会の最後にあるグッズコーナーで、この劇の全貌を記した本はないかと訪ねてみたのだが、店員からそんな本はないし、今回の展示資料を集めるだけでも一苦労だったという話を聞いた。

 さて、そんなこの演劇を寺山は、市民たちの「無関心」「閉ざされた心」を「ノック」するものとして、構想していたようだ。その言葉は、あたかも以前ポケモンの記事で引用した、田尻智の「そういう暇な空間をショックなものに変えるというか、人間の見方だったり目線自体が変わればショックになる」という言葉を思い出させる。

 

リレー書評第5回:ポケモンの“父”を訪ねて ~宮昌太朗+田尻 智「田尻 智 ポケモンを創った男」 (前編) | ねとぽよ

 

 実際、この劇で演者が着ている衣装は、ほとんど荒唐無稽なエログロナンセンスに彩られている。例えば、吸血鬼・鞍馬天狗・女装、あるいは犬の頭の男――それは、現代風にコスプレという言葉を使った方がよい内容だったのではないだろうか。ちなみに、寺山は天井桟敷の劇団員募集ビラには経験どころか「過去不問」とし、娼婦/運動家/人妻/犯罪歴者/ボクサー(ちなみに猫というのもあった)など、実際の作中人物に近い職業の人から募集していた。

 物語もまた、まるで白昼夢のような内容だ。例えば、地下病棟という劇は、このようなシナリオなのである。

ある団地の昼下がり、路上のマンホールのフタがあいて、白衣の男たちが出てくる。彼らは通行人を襲い、マンホールの中に引き摺り込む。マンホールの中は地下病棟になっていて、長い廊下の突き当りには手術室がある。そこで通行人は強制的に患者に仕立て上げられ、車椅子に乗せられて何処かへ連れ去られる。(同展パンフレットより)

 まさに、当時のアングラのイメージを、都市空間に導入した作品だとわかってもらえると思う。

 

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展覧会のパンフレットに印刷されていた、この劇の「地図」

 

 ただし、この展覧会、仕方ない話ではあるのだが、ノックの情報がほとんどない。台本などは展示されているが、写真は断片的だし、観客の反響もあまり見えない。わかるのは、どうやら地元住民にはブーイングを浴び、警察からは怒られたということである。

 一つだけ面白かったのは、体制に目をつけられたあとに寺山と劇団員が揉めてるのだが、劇団員の側が芸術家らしく当初案をやりぬこうと主張するのに対して、寺山がぶっちゃけ完全に日和っていたように見えることである。寺山は、どうやら穏当なストーリーでの回収の仕方を提案して、文句を言う劇団員には「天井桟敷をやめるぞ」とまで言い放ったらしい。気骨ある芸術家として彼を見ている人には困惑する話かもしれないが、僕はイベントの企画屋さんとして、寺山は柔軟な発想ができる優秀な人だったのではないか、と思ってしまった。

 

ARG作家としての寺山修司?

 ところで、このイベントへの僕の感想を聞いた友人が、興味を持ってこの展覧会に行ったところ、会場で催しをやっていた天井桟敷のメンバーに出会ったらしい(一応、伝聞なので名前は出さないでおく)。

 その初老の男性が言うには、「この『ノック』こそが、寺山のやりたかった演劇だったと天井桟敷のメンバーはみんな知っていた」というのである。そういえば以前、寺山修司は野外演劇をやりたかった人だと聞いたことがあった。また、そもそも力石徹の、あの虚実ないまぜの空間を作り上げた葬式は有名だ。

 そして、もう一つ彼が言っていたという話で面白かったのは、寺山はセリフにはこだわったものの、演出には全く興味がなかったという話だ。セリフに関しては一つ飛ばしただけでも怒るのに、演出は演出家に任せる方針だったという。また、ある演劇では、寺山に黙って、シーンの順番を入れ替えて上演したのだが、寺山は何も言わなかったという。これをどう解釈するべきかは人によって違うだろう。僕の解釈では、ごく通俗的な意味での「演劇的なるもの」に、実は寺山が全く興味がなかったのではないかということだ。では、彼が求めていたのはなにか。

 その人の話が正しければ、僕の考えでは、おそらく寺山は「物語の断片」しか求めていなかったのであり、その感性はARGというものの本質だということだ。

 

「ただインターネットだけがなかった」

 最後に、もうひとつ重要なことがある。それは、この「ノック」はやはり失敗だったようだということだ。

 しかし、それは当時の状況にも原因がある。安保闘争の記憶がまだ薄れない頃でもあり、警察の目は厳しく、ミイラのコスプレを来て歩けば通報されるレベルだったとか。「ノック」では周辺住民を巻き込むような演目もあり、その際に通報されてしまったのだ。結果として評判は、迷惑行為として非難轟々だったとか。ニコ生もUstもないから、全貌を見渡せる人などいない。しかも、当時はTwitterもTogetterもないから、参加者の声も残らない。知人が聞いた話では、男優の人は「今の方が(この劇をするには)いい環境だよね」としみじみ言っていたらしい。よく、この手のことを話すときに「当時は大らかでいい時代」だったので羨ましいと言われるが、少なくとも寺山は、今よりもはるかに困難な中で、ARGという言葉もないままにARGを実行して、そしてブーイングを浴びたのだと思う。

 そして、インターネットである。2号の大塚英志氏のARGインタビューで、氏は20世紀の様々な先駆的な事例をあげた上で、「ただインターネットだけがなかった」と述べていた。そう、寺山の時代にはインターネットはなかったのだ。僕の側に残された課題は、物語の断片を断片のままに扱う技術としてのインターネットや、女の子ウェブで様々に探求してきた、なりきりや夢小説のような新しいフィクションと人間の関わり(例えば、演劇的な「演技」と「なりきり」は明確に違う)から、いかに寺山が届かなかった地平に手を伸ばせるかを考えていくことだと思った。寺山修司の歩みについては、今後も考えていきたい。

 

 

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ARGに興味のある方は、

「ねとぽよ2号 ARG特集」も合わせてご覧ください! 米国の42ENTERTAINMENTのダークナイトARGにまつわる事例の紹介など、かなり本格的に特集が組まれています。

 

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