ご存知の方も多いであろうVivienne Westwood(ヴィヴィアン・ウエストウッド)という英国ブランドが大好きなわたしは、いつも胸元の襟が大きなハートになっている派手なジャケットを羽織り、ゴツい甲冑のような指輪をはめて日々大学へと通っている。そんな格好をしていると、様々な人たちに「あー、『NANA』に出てくる大崎ナナの格好にそっくりだね」と言われることが多い、これがもう本当に、多いのだ。

 

 ……うーーー、憤慨だ! げきおこ!

 

 確かにあの漫画に出てくるナナと、わたしの格好はとても似ているし、着用しているアイテムも同じなのは認める、が! それはナナ“の”モデルになっている「椎名林檎」をリスペクトしての格好であることを何故分かってもらえないのか! 椎名林檎ファンであった漫画家・矢沢あいが、そのリスペクトゆえにナナに同じファッションをさせているのだぞ!

 

椎名林檎と中島美嘉の比較画像

左が椎名林檎で、右が中島美嘉。リングに注目。

 

 今でこそ綺麗めで化粧品のCMに出てきちゃう大人な歌手としての印象の強い椎名林檎が、ロックで”ヴィジュアル系”なちょっとゲテモノな分類にされていた時代のこと、皆さんにはもう忘れたよ、とはわたしは言わせないそして、言わせたくないのだ。

 

中学時代~椎名林檎が”ヴィジュアル系”だった頃

KERAで椎名林檎が特集されていた

 中学二年生だった2004年、椎名林檎という存在を知ったわたしは、瞬く間に猛烈なファンとなった。

無罪モラトリアム

 当時彼女はソロ時代にピリオドを打つべく、NHKみんなのうたとしても知られている『りんごのうた』をリリースしたばかりだった。一歩遅れてそんな頃にファンになったわたしは、福岡の小さな田舎町から、まだISDNのインターネットを一生懸命使って、手首に刃物をあてるような、過激でエキセントリックな彼女のライブパフォーマンスを知っては感動するような日々を過ごしていた。

 当時のインターネットには、彼女を崇拝するファンサイトが数多く存在していた。彼女の派手な衣装のコスプレをする人や、意味深な歌詞を丁寧に評論する人をよく目撃したのを覚えている。どちらかというと、ネットの中でひっそりと暗い人たちが語り合っているような感じで、サイトの見た目も黒背景に白文字や赤文字という感じのものがやたらと多かった。わたしが人生で最初に「メンヘラ」と言われる人間達を目撃したのは、ここだったのかもしれない。

 こういうことは、現在では忘れられてしまった話なのかもしれない。だが、私が今でも持っている当時のKERAには、14ページに渡るほどの椎名林檎特集が組まれている。そう、主張の強いファッションだったこともあり、彼女はあの頃、実は”ヴィジュアル系”にハマっていくような女の子たちに愛されていたのだ。少しゲテモノ、ちょっとかぶいている。そんなイメージの歌手、それが椎名林檎だった。

 

とりあえず「病的少女。」というHPをつくってみた 

 当時の私は、そんな彼女の音楽、歌詞、考え方、そしてファッションの、何もかもが格好よく見えた。 わたしだって現代のシド・ヴィシャスに手錠をかけたいしヴィヴィアンのアーマーリングはめてナース服でガラス割ってしまいたい!――わたしは、その全てに惚れ込んでいた。

 だが、先程も述べた通り、わたしは彼女が一旦歌手活動を終えると宣言したときになって、夢中になってしまったのだ。そこで、わたしは当時の他のファン達のようにネット上でファンサイトを開設した遅れてきたファンなのだから悔やんでいても仕方がない、早く追いつかなければ。

 手打ちのHTMLで作り上げたそのサイトを、私は病的少女。」と名づけた。ゴスロリ調のデザインであしらい、TOPには血の付いたガーゼを手に巻き付けた椎名林檎が歌っている写真を大きく飾った。ページの下には、小さな正方形の同盟バナーもたくさん貼った。「林檎班同盟」や「正しい街に住む林檎ファン同盟」という同盟を、当時あの場所にいた人たちは、きっと覚えているはずだ。わたしもそこに入っていた一人である。

 

 20068313859

当時TOPに貼っていた↑、『罪と罰』のLIVE写真をGoogle検索で発見。

 

 そして、プロフィールには、「前略プロフ」を利用した。黒背景に赤文字で、中学生らしく丁寧に林檎ちゃんへの愛を綴った自己紹介をしたのを覚えている。そんな2000年代前半はまだパケホじゃなかったもんだから、もっぱら前略を見たのはパソコンからばかりであった。

 当時の前略には、いわゆる「バンギャ」のお姉様達が多くいて、彼女達はヴィジュアル系の特定のバンドを追いかけながらも、椎名林檎も好きだという人がほとんどだった。そんな彼女達は、椎名林檎ファンの中学生を優しく受け入れ、色んなことを教えてくれた。MSNメッセンジャーで、実際に会ったこともない彼女たちの指示を受けて、どきどきしながら鏡の前で初めてのお化粧をしたときのことを、今でもよく覚えている(※ ちなみに、それは西友で買ったアイライナーだったのだが、そこから入る辺りはバンギャメイクっぽさ全開である)

 

ただただ口を開けてつっ立っていた初ライブ

 活動停止していた椎名林檎を、そうやってわたしは追いかけるように少しずつ知り、ファンとなっていった。「虚勢を張る気は無いのだけれど取分け怖いこと等ない」という歌詞に、低いスクールカーストの中で苦しんだ中学校生活は強く支えられた。わたしと同じような環境でファンになり、遅れてきた同世代のファンはネット上にも他にも沢山いて、自分のサイトのBBSでその悔しさを語り合うことも多かった。 

教育

 だから、椎名林檎が東京事変としてのバンド活動を発表したとき、わたしは「追いつけたかもしれない!」と歓喜した。ツアーが発表された時はインターネットで「やったね」と、ファン同士で何度も喜び合った。すぐさま福岡公演のチケットを貯金したお小遣いで予約した。

 ただひとつ述べておかねばならないのは、実は東京事変になってからの椎名林檎を、わたしはずっと、ずっとどこか残念に思っていたことだ。ネットのファンの中からもチラホラと嘆く声は聞こえていた。バンドになったゆえの調和を大事にした曲やパフォーマンスは酷くわたしを不安にさせた。歌詞も、なんかちょっと丸い感じがして、小難しかった。椎名林檎にいまだに縋っていたわたしは、まるで、あの時の彼女が消えてしまったかのような思いにとらわれた。

 

 椎名林檎を直接観に行かなくては――。私は、強く決意した。

 

 

 保健室に行くふりをして授業を抜け出し、そのまま2時間かけて都会のライブ会場へたどり着く。セーラー服姿のままの私は、全身ヴィヴィアンでビッシリ格好よくまとめたお姉さま達に囲まれた――こんな格好、恥ずかしい。林檎ちゃんのファンは、最近の林檎ちゃんよりも変わらずにいた。

 

 ライブが、始まった。

 幕が開くと、そこには、あのずっと憧れだった椎名林檎が、本当に、本当にそこに立っていた――信じられなかった。あとから遅れてファンになり、既に出たCDばかりを追いかけていた、あの椎名林檎が存在していた。しかも、予想よりも派手な格好をしている、どうしよう、嬉しい。

 ずっと、虚像を追いかけている気分だったわたしは、ライブの2時間、他のファンのような手拍子も合唱もせずに、いや出来ずに、ただただ口を開けてつっ立っていた。他の東京事変のメンバーがそこにいたのかどうかも、実はほとんど覚えていない。思いがけず、演奏されないだろうと思っていた『丸の内サディスティック』が流れたとき、私はついに号泣した。そして確信した。やっぱり椎名林檎は実在したのだ。東京事変になって、椎名林檎は変わってしまったと思っていた。それでも、彼女はやっぱり椎名林檎なんだ。

 実家へと戻る夜の高速バスの中で、その嬉しさからわたしは泣き続けた。

 

高校時代~しかし中学時代の予感は的中した

「病的少女。」を閉鎖した理由

 インターネットに居場所を見つけようとしていた、中学時代。だが、わたしは高校デビューを必死で画策し、首尾よく知り合いの誰もいない高校への進学に成功する。そして生徒会に入る一方で、クラスでは化粧の上手なキラキラした女子たちに接近した。もちろん椎名林檎のファンでは居続けたが、「病的少女。」はインターネットからそっと削除した。その名前からして黒歴史にしかならない感じの、わたしの林檎ファンサイトは、なんだか当時の「スクールカースト上昇キャンペーン」の邪魔になる気がしてしまったのだ。

  他にも、理由があった。当時流行りだしたmixiでは、サイトをわざわざ持たずとも沢山の人と気軽に情報交換できた。2chでも、BBSのような密なコミュニケーションは取れない代わりに、椎名林檎板が存在していた。その莫大な情報量の中で、時に殺伐としながらも、いつでも気軽なコミュニケーションが可能になったのだ。

 しかし、何より気になっていたのは、わたしのサイト「病的少女。」のトップページに飾られた、椎名林檎のソロ時代の過激な写真が、時代錯誤になっていたことだ。東京事変として“の”椎名林檎は、やはりわたしが危惧した通り、どんどんソロ時代から離れていくように見えた。彼女自身が“椎名林檎”という存在から意図的に強く離れようとしていたようにも見えたし、必死にどこかへと舵を切っているようにも見えた。

 

 椎名林檎の濃度は、東京事変で薄まっている――そんなふうに彼女の姿を見つめ、わたしのような気持ちを強めて、彼女から離れて行くファンが多かったのは、インターネットを見ることで強く分かった。

 mixiのコミュニティでは、椎名林檎をデビュー当初から追いかけ続けていたファンが、グッズを一斉に手放して格安で売る姿を多く見かけた。その恩恵に預かり、格安でソロ時代のポスター等を買いながら、わたしは少しやるせない気持ちになった。2chでも、椎名林檎板に書き込む人間は段々と減っているように感じた。その頃、実は椎名林檎のファンは東京事変の活動を通して様々な層に広がり、その数自体は増えていたのかもしれない。しかし、2chを使う層の彼女のファン、というものは、やはり減っていたのだと思う。

 

718042069380

 mixiで安く譲ってもらったポスターの数々。

 

 

ヴィヴィアンの黒服に身を包んだ少女たちは去っていた

 それを確信したのは、インターネットではなくてリアルの場所、ライブ会場だった。

 百道浜と室見川にほど近い(!)都会の私立高校へと通っていたわたしは、学校に禁止されていたアルバイトをしながらせっせと貯金し、憧れのヴィヴィアンのジャケットやスカート、ブーツを少しずつ揃えていった。東京事変になってからの彼女は、奇抜な格好をほとんどしないようになってしまったが、わたしが好きな彼女のファッションはやはりソロ時代のもので、次の東京事変のライブに着ていこうとこつこつ準備していたのだった。

大人(アダルト) (通常盤)

 そして迎えた、東京事変の2nd album『大人』リリース後のツアー。わたしは昔の椎名林檎が着ていたヴィヴィアンのジャケットを羽織った。そのとき記憶にあったのは、初めてライブ会場へ行った時に、同じジャケットを格好良く着ていたファンのお姉さんたちだ。彼女たちに憧れ、とにかくその仲間入りをしたかったのだ。

 

 しかし、会場に着くと、そんな人たちは、ほとんどいなかった。

 その代わり多種多様なファッション、言ってしまえば earth music & ecology みたいな、宮崎あおいがナチュラルに着ているような、わたしにはよく分からない世界の、ふわっとした格好をしている森ガールみたいな人が沢山増えていた。

 

 ああ、とわたしは溜め息をついた。

 mixiのコミュニティの通りじゃないか。

 

 東京事変のファン層はやはり広がってしまっている。自分しか知らないのよと思えた、椎名林檎のあのソロ時代を愛していたような「偏屈なひとたち」は、東京事変で離れていた。Vivienne Westwoodでバシッとキメてきてしまったわたしは、東京事変のライブ会場に来ていた雑多なファンの中で確実にひとり浮いていた

 ライブで椎名林檎を間近で見た後も、わたしは寂しい気持ちでいっぱいのまま帰り道を歩き、携帯を触っていた。そして、当時流行していた「りある」というTwitterの先駆けのようなウェブサービスでぽつりと、と小さく呟いた。

 

 “椎名林檎をこのまま好きでいる理由がないかもしれない”

 

 

高校卒業後~2chに「椎名林檎終了スレ」が立った日

椎名林檎に失望した、決定的な出来事

 私は、高校を卒業して、大学に入学した。結局、高校時代には、すべてのツアーに参加した。「椎名林檎を愛することを止めない、わたしは林檎ちゃんが好きなんだ」と、多少意地になっていた。Vivienne Westwoodも着続けた。漢字を変に読ませる独特の歌詞が減り、普通な感じになってきちゃったなあ、と思いつつも、やはり椎名林檎はいつかソロに戻ってその椎名林檎の濃度を高めた作品を出すだろう、と思っていた。だが、そんなわたしが彼女に失望する、決定的な出来事が起きてしまった。

 今から、ちょうど5年前である。椎名林檎デビュー10周年の節目の年、椎名林檎は唐突に、「椎名林檎」ソロ名義で久々にアルバム『私と放電』をリリースした。

私と放電(通常盤)

 わたしは動揺した。それは、ソロ時代の寄せ集めのベストアルバムだった。椎名林檎は、かつて「3枚のアルバムを出したらソロ時代には完全にピリオドを打つのだ」と言い放ち、その宣言通りにやめた人だ。東京事変での活動も全力だったはずなのに。

 

 “ベストアルバムは絶対に出したくないんですよね、その時代時代のわたしのベストをその時は出しているから、後からそんな風に売れたからとかいう基準でまとめてもう一回売るなんて嫌なんです”

 

 90年代の雑誌のインタビューでそう答えていたのを、わたしはずっと覚えていた。そのスタンスが好きで椎名林檎を好きになったし、その台詞を信じて東京事変での変化も受け入れるよう心がけたというのに、ねえ林檎ちゃん、ねえ、なにそれ。

 実はこのベストアルバム、東京事変になってから椎名林檎から一気に離れてしまったファンを呼び戻す起爆剤として、音楽会社が画策したらしい。椎名林檎自身はリリースに猛反対したというのが、様々なインタビューなどからうっすらと透けて見えてくる。確かに、東京事変になってからのライブは、規模も会場も回を追うごとに小さくなっていった感じがした。しかし、そうだとしても、いやむしろそうだとするなら、あまりにも格好悪すぎる。

 林檎ちゃんは昔を否定するかのごとく、多少乱暴にソロ時代のファンを切り捨てても東京事変を貫いて来た、それなのに今更ソロ時代のベストアルバムなんて。往生際が悪すぎる。2chを見ると、椎名林檎終了スレ、なるスレッドが立っていた。わたしも、椎名林檎の情報を必死に追いかける気力がなくなってしまった。

 

 もう椎名林檎は戻らないのだ、とわたしは確信したのだった。 

 

就活を経て~いつの間にか「りんごのうた」が好きに

 わたしに残されたのは、Vivienne Westwoodの沢山の洋服とアクセサリー、それだけだった。

 ただ、なんだかんだで初期の彼女は大好きなままだったわたしは、ヘッドホンで『無罪モラトリアム』を延々と聴きながら、ヴィヴィアンの洋服で出かけたりしていた。でも、彼女の新しい情報は全く求めなくなったし、むしろ見ないようにしていた。必死に追いつこうと追いかけていたはずの椎名林檎を追いかけることを止めてしまい、わたしの中で、椎名林檎の時間は止まったままとなった。

 

 それから、大学時代にゆっくりと時間をかけながら、その後ぼーっと椎名林檎を見つめるようになった。そして現在に至る、と言ってもいいかもしれない。

 

 

 しかし、最近になって少し心境に変化が起きた。昨年の大学3年生の夏、就職活動という作業を通して社会に触れざるを得なくなったわたしは、息抜きに椎名林檎の曲を聴きながら、

 

 “なぜ、彼女は東京事変を選んだのだろう” 

 “彼女が禁煙してしまったのはなぜか”

 “子供を生んだ彼女には変化が出て来たのだろうか”

 

 といった、彼女自身についての事柄を考えるようになった。そして、歌詞などを最初から順番に読み返しながら、あれ、と気づくようになった

 わたしはずっと一方的に、苦し紛れに言葉を紡ぎ出すような、若い女の子としての初期の彼女の歌詞に共感し続けていた。自己主張を強く出来る、そのファッションを愛していた。でも、わたしも大学生になって20歳を過ぎ、社会の不条理に触れて落ち込んだりもし、やっと少しは落ち着く部分が出てきたのだと思う。

 気がつくとわたしは、ソロ時代の最後に出した、あの『りんごのうた』が一番好きになっていた。大好きだったはずの過去の初期の曲達が、青々しすぎて直視できなくなっていた。そして、中学時代に買って「まあ、これも林檎ちゃんだし」と渋々、好きになろうとしたあの東京事変の最初のアルバム(『りんごのうた』のアレンジバージョンが入っている)が、今更になってストン、と腑に落ちたように突然気に入ってしまったのだ。今では一番のお気に入りである。

 

永遠に追いつけない林檎ちゃん 

 そう、わたしはやっぱり、ずっとずっと彼女を追いかけているのだ。そしてずっと、追いつけないのだということに、やっと今、気づかされたのだ。それに気づく為に、わたしは一旦無意識に椎名林檎から離れたのかもしれないとまで思うようになった。

 

 今更、になって。今頃、になってである。

 

 この記事のリリースされた本日2013年11月25日は、椎名林檎の記念すべき35歳の誕生日だ。そして昨日11月24日に、わたしも23歳になった。同じ干支の彼女と、ピッタリ一回り違うわたしは、永遠に彼女には追いつけない。同じ時代を生きながらも、どうしてもわたしと彼女は違う世代として生きていかねばならない。そのタイミングが、重なり合うことはない。

 今やっと、ソロ時代の彼女を自分の中で消化し終えたわたしは、最近の椎名林檎の新曲やコラボ曲の、その挑戦にただただ驚いている。相変わらず、最前線でのチェックはそこまでしていない。でも少しずつ中学時代のように、既にリリースされたCDをまた、まるで追いかけるようにして何度も何度も、ファンになっている。

椎名林檎、中田ヤスタカとの初コラボ曲“熱愛発覚中”PV公開&Mステ出演 -musicニュース:CINRA.NET

 

 わたしは、これから先結婚をするだろうし、これから先子供も産むことであろう。その時々になってやっと、過去のその時々の林檎ちゃんの歌詞や行動を理解するようになっていくのだろうと、今わたしは強く思っている。そして少しずつ、当時理解できなかった彼女の思いをあとからあとから、わたしは理解していくことだろう。

 

 

 

※ 余談

 PCの思い出ばかりを書いてきたが、当時はケータイで「歌詞画」の文化もあった。(参考歌詞画(かしが) – 日本語俗語辞書

 

歌詞画_椎名林檎

音比古さんが当時のガラケーから提供。深夜のドコモショップに駆け込んで店内で充電してくれました。

 

 上は当時の歌詞画の一部である。ちなみに、椎名林檎の歌詞画は、ソロ時代の歌詞が多いのに画像は東京事変のものが多かった印象がある。 そこに、ソロ時代を追いかける歌詞画世代のファンのズレが見て取れはしないだろうか。

 また当時、歌詞画では『本能』の字体の影響から、漢字の下に線を書く時にあえて長く書いて、先っちょに赤い丸をつけるのが流行していた。わたしはこれを勝手に「先っちょ丸文字カルチャー」と呼んでいる。主に「勝訴ストリップ」の歌詞画で流行していたように思う。

本能_歌詞画

上に引用した歌詞画はGoogle検索で引っかかったものだが、当時何度も見かけた記憶がある。これなどは、非常にその特徴がわかりやすい。後追いで椎名林檎を追いかけた世代のものだが、こうした歌詞画たちもまた当時の一つの文化であった。

 

 

======

 HP世代の女の子のネット体験は、他にも「ねとぽよSP1 女の子ウェブ号」で紹介されています。椎名林檎以外にも、BUMP、カナヘイ、ハリポタなどの名詞に懐かしくなってしまうあなたは、ぜひこちらから購入をどうぞ。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
雨宮美奈子

雨宮美奈子

海外生まれのハーフ。インターネットの星屑に黒歴史を残しすぎた女子大生。