「Epic2014」という約9分の動画があります。いまや懐かしいFlashムービーです。2004年11月に、米国の若手記者とテレビマンが作成しました。遠い未来の架空のメディア博物館の資料映像という設定で、10年後(来年!)に私たちネット民がどう暮らしているかを予想しています。

 

メディア史博物館(musium of media history)とあります。

メディア史博物館(musium of media history)とあります。

 

 作中では2014年に、GoogleとAmazonが合併して、「Googlezon」として世界に君臨する未来が空想されています。情報配信と小売流通の頂点に立った2社が、老舗の新聞もウェブ企業も押しのけて、”進化型パーソナライズ情報構築網”EPICを開始。新しいウェブサービスEPICは、世界中のユーザが、自分用のコンテンツを選び・集め・発信する巨大なプラットフォームとなる。そして世界は、繊細な発見に満ちた明るい将来か、虚偽と扇情の渦巻く暗黒の未来のどちらかに向かうだろう。そのような主張が、厳かな演出で描かれています。

 

いま観ると、簡素なつくりの動画。

いま観ると、簡素なつくりの動画。

 

つながっていく世界のイメージ。

つながっていく世界のイメージ。

 

その2014年がいよいよ訪れます。そして、世界はご覧の通りです。

 この動画は大まかな見通しを、正しく予見しています。新聞やテレビの力は落ちていくだろう。代わって世界中で、ソーシャルメディアが大流行するだろう。誰もが何かの発信者になって、そこで生まれた膨大な情報にアクセスできるようになるだろう。そのための新しい端末も生まれるだろう。オンライン上にあらゆるコンテンツをまとめて・置いておく「市場」もできるだろう。情報は何通りにもカスタマイズされ、フィルタリングされるだろう。やがて、有力な個人によるキュレーション(まとめ)が、世論を動かすようになるだろう――。

 

「紙 vs. ネット」の構図が大げさに語られた時代もありましたね。

「紙 vs. ネット」の構図が大げさに語られた時代もありましたね。

 

 

変わらない夢、ばらばらな現実

 

 たしかにそうです。私たちはだいたいそんな感じで暮らしている。でも、この動画が夢見たほど、現実の私たちの生活はかっこよくないですよね。そこには微妙な「ずれ」がある。何が「ずれ」ているのか。それはどうして生まれたか。改めて考えてみます。

 

「Epic2014」は、壮大な未来が私たちを待っている気にさせる動画です。10年前に、メディアのトレンドに敏感な人たちが、世界をどう読んでいたのか分かって面白い。その着想は、米国のウェブ文化に色濃く影響されています。その系譜は、1960年代の情報学(東海岸のMIT)やハッカー文化(西海岸のシリコンバレー)にまで遡れて、その時々で、日本・東京の未来学とも交通しています。

 1996年に米国議会が、オンライン上での性表現を規制する法律を可決したとき、ハッカー文化に親しい詩人のジョン・ペリー・バーロウが、「我々はサイバースペースに精神の文明を作り上げるだろう。そしてそれはかつてお前たち政府が作り上げた世界よりもはるかに人間的で美しいものになるに違いない」と抗議しました。日本でも有名な、「サイバースペース独立宣言」です。「Epic2014」は、この時ジョンが「我々の私有地」だとみなしたインターネットは、「大組織が管理する公有地」に変わると読んでいたのですね。

 

 この動画は、オンラインで「世界がひとつにまとまっていく未来」を夢見ていました。しかし現実には、大量の顧客情報を抱えているとはいえ、どのプラットフォームも「すべての情報の根幹を握る単一のメディア」にはなりませんでした。AppleとFacebookが現れ、YoutubeとTwitterが現れ、ニコニコ動画とPixivが現れ、HuluとSoundCloudが現れました。新聞社もテレビ局も「デジタル化」に乗り遅れてなどおらず、当のGoogleとAmazonは、「ウェブからリアルへ」と根を下ろすための一手を次々と打っています。

 そうして複数のタブレットが発売され、たくさんのアプリが生まれ、いくつものソーシャルメディアと、ウェブメディアが人気を得ています。メディアの作り手たちは、収益を確保したり、不正アクセスを防ぐために、「課金の壁」とアクセス制限を導入し始めました。クリス・アンダーソンが「Web is Dead」と書いたのは、もう3年も前のこと。いまや私たちは、「ばらばらな情報を、ばらばらなまま、手元で」操るために、さまざまなウェブサービスや情報機器を、その場の空気や予算の都合に応じて、自然に、スムーズに使い分けています。

 

かっこよくて、生活感のないシナリオ

コズモポリス (新潮文庫)  

  それだけではありません。「EPIC2014」のシナリオには、人肌の温かさがないのです。だから、かっこいいけど、とっつきにくい。日本でも、メディア関係者のあいだで、たびたび話題になりました。いまだに、当時のウェブへの期待感を、懐かしむ声があります。

 視点は三人称。時代の大きな流れを、大企業を登場人物として、上から眺めたものです。この動画はウェブにたくさんの「情報」が集まると指摘していますが、それは送受信された「通信」の履歴であって、人々の「暮らし」の手応えではありません。だけどそれならこの10年で・日米間で、私たちのインターネットはどう変わったか。

「遠くで彼らが夢見た理想」と、「目の前で私たちが暮らしている現実」には、育ってきた環境がちがうからか、イナメナイ価値観の「ずれ」があります。2004年と2014年はちがいます。シリコンバレーと東京はちがいます。geek boyの群れと、ウェブ女子の集いはちがいます。ユーザ数も、CPUの性能も、端末の普及率も、今と昔ではちがいます。ひとつひとつの「ずれ」が、かっこよさと、とっつきにくさを生み出している。

 その「ずれ」を示したい。題名には「人肌感」と付けましたが、ちょっとぴんと来ない。考えやすくするために、2作の小説を引用してみます。あなたはどちらの描写に親しみがわきますか。

 

 彼はチンの向こうに目をやり、いくつもの数字の列が互いに逆方向に流れていくのを見つめた。彼にはわかった。これがどれだけ自分にとって意味があるか――スクリーン上をちかちかと揺れながら進んでいくデータ。彼は図表をじっと見つめた。図表はある有機的な形状を結びつつある――鳥の羽、あるいは中が細かく分かれた貝。数字やチャートを御しがたい人間エネルギーの冷たい凝縮として捉えることは、浅はかな思考である。あらゆる種類の思慕や夜中の汗が金融市場の明晰な単位に還元されたと考えることは。事実、データ自体は情感があり、輝いている。生命のプロセスのダイナミックな側面なのだ。これこそはアルファベットや数のシステムの雄弁さ――0と1の世界で――フルに実現されたもの。地球上で生きている何十億という生物の呼気ひとつひとつを定義づけるデジタルの規範。ここに生物圏のうねりがある。我々の身体と大洋とが、知り得る完全な形で存在しているのだ。

――ドン・デリーロ『コズモポリス』(2003年・上岡伸雄訳)より

【俺は年上の割に大して頼りにならないし、実は例の付き合い始めた人と明日初めてセックスすることになって、すげえびびってるぐらいなのですが】
【えー! おーめーでーとー!】
【何かの縁だし、無事でいて欲しいと思うので】
 ともだちでいましょう、と打ち込みかけて、照れくさくなった。バックスペースで打っている友達の言葉を消す。恐らくヨシノのパソコンには「打ち込み中」の表示が点滅していることだろう。
【これからも、お互い無理しない範囲で、たまにこうして遊ぼう】
【うん、わかった。よろしくお願いします】
【そんじゃ行きますか】
 音楽が終わるのを待って、テラスから塔の内部へと戻る。階段の続きを登り、次の謎解きへと向かう。途中で、ヨシノがいつものように、【あのね】と切り出した。

――彩瀬まる「はらいそ」『骨を彩る』(2013年)より

 

 アメリカで1936年生まれの男性が10年前に書いた小説と、日本で1986年生まれの女性が今年に書いた小説です。どちらも「パソコン画面の向こう側」を描いています。インターネットを通じた、身体を介さない触れあいに、温かみを感じています。

 それではどこがちがうでしょう。アメリカ人は冷たくて、日本人には情があるのだと誤解しないでください。『コスモポリス』の「彼」は、記号化された生命の群像を「観察者の視点で」観察し、解釈し、判断しています。「はらいそ」の語り手は、非実在のキャラクターとして交わしたおしゃべりを、「聞き手と一緒に」懐かしみ、思い出して、照れています。

 他にも、もっとたくさんの「ずれ」が示せるでしょう。答えはひとつに収束しないはず。ふり返ってみなさんは、この10年をどんなふうに過ごしてきましたか。

 

人肌感は、ユーザの「手さばき」の履歴

骨を彩る  

  なかでも私がひとつ示すなら、何だろうなぁ。まずは一般論から攻めましょう。

 日米両国ではこの10年に――もっと昔からそうだったとも言えますけど!――、ケータイ電話とパソコンの表現力が上がって、価格も下がって、常時接続できるひとが増えました。私たちはますますインターネットに親しむようになりました。より正しくは、「私たち」の人数が増えました。

 それは日本のウェブカルチャーで、この10年にどう起きたのか。これまでにも「ねとぽよ」は、「女の子ウェブ」と総称して、その一端を取りあげてきました。たとえば青少年向けの人気コンテンツを共有の創作インフラとして、オンラインで無償の作品作りが楽しまれ、多くの出会いのきっかけを生んでいます。コミュニケーション・サービスを使っていた学生たちは、サイト開発者の設計思想から大きく離れたところで、字義通りの「ソーシャルネットワーク(人間関係)」をリアルタイムに集めて、束ねて、着飾って、見せ合っていました。侮蔑と冷笑をマナーとした2ちゃんねるの美学が、ニコニコ動画で愛情と熱意を表現するルールに変質しました。オープンソースの倫理は、美味しいお店や調理のコツを詳しい人たちが教えあう風習へと溶け込みました。

 つまり日本では、インターネットが人々のなかへ浸透していく流れが、「生命のプロセスのダイナミックな側面」を、「友達のヨシノ」へとカジュアルダウンする工夫によって成されてきたのです。それによって、オンラインで物語の生まれる「地平」が、「数字から意味を読みとること」から、「対面でおしゃべりすること」に近づいた「感じがする」。「人肌感」の正体は、その「感じ」を生み出すための地道なチューニング――つまりは文化を作り出す「手さばき」を積み重ねた履歴に他ならないのだと思います。

 私たちは、文化を作り出す「手さばき」そのものを、探せて、さわれて、動かせる「もの」として扱えるようになっているのですね。もちろんそれは、人類の進歩ではなくメディアの成熟でしょうが。いずれにせよ日本のウェブカルチャーは、かつて「我々の私有地」だった「大組織が管理する公有地」の表面に、「みんなで何かを作る、その手さばきの履歴」を、次から次へと積み重ねてきた。

 

それをひとつの「物語」にしたい

 

 だからそのエッセンスを、人間にも読みやすいひとつの「作品」に閉じ込められないかと思っています。今年に入って、いくつかのブログで何人ものひとが、「自分が過ごしてきたインターネット史」を語るようになりました。その集積は文学として――控えめにいえば、小説として――、選抜され、編集され、記録されるべきだと感じるのです。たとえば「万葉集」みたいに。あるいは「源氏物語」みたいに。もしくは「世界文学全集」みたいに。

そして、そうです。「Epic2014」が楽しまれたみたいに、「世界がひとつにまとまっていく未来」を夢見ながら、「ばらばらな情報を、ばらばらなまま、手元で」楽しめる物語がほしい。「ネットに投稿するためのコンテンツ」ではなく、「ネットを使ってきた人たちのストーリー」を知りたいと言えば明快でしょうか。

 その「作品」は、私たちのインターネットを主題としながら、三人称でビッグネームたちの歴史を描いたり、一人称でプライベートな生活を語ったり、しばしば二人称で観客に呼びかけたり、無人称の情景をごろんと描いたり、込み入った事情を整理したり、分かりにくい問題を検証したりしそうです。どこかで買えないかと思っています。なさそうなら自前で作るかな、とも。「Epic2014」を視聴しながら、そんなことを考えていました。来年も、いい年になるといいですね。

 

 

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笠井康平

笠井康平

ねとぽよでは記者と編集のお手伝いをしています。

文芸誌「新古典派フィクションズ」の主宰で、ひっそり小説も書いています。

日本文学史とウェブカルチャーに詳しくなって、この国の歴史と文化の最適な記述法を編み出したい。