山内マリコは「この国に生きる女たち」の肖像写真を撮りつくすつもりらしい。

「この国に生きる女たち」は大きく3つの地域に暮らしている。都市と、郊外と、海外だ。彼女たちは3つの地域を行き帰りしながら、共有しづらい物語を抱えて、何かや誰かの訪れを待っている。その物語は、たとえば都市と郊外の「ずれ」や、郊外と海外の「近さ」から生み落とされる。山内マリコは、3つの地域に埋もれた人の、歴史と物語とをひとつずつ被写体にして、長短さまざまな現代小説に仕上げている。僕の勘定ではすでに20篇を越えた。

 たとえば「ケイコは都会の女」は、ベッドタウン生まれだけど努力して「都会の女」になった女性が、お酒を介して見つけたふとした息抜きを描いている。「さよちゃんはブスなんかじゃないよ」では、昔に都会で流行ったすてきな結婚なんて出来っこなさそうなブサイク二人が、悲しい恋に胸を焦がされる。「Mr. and Mrs.Aoki, R.I.P」は、メディアの喧騒から離れて暮らし、静かに死んだ老夫婦の生涯が、他でもなくメディア自身の「視線」で消費されて行く物語だ。

 いまも連載中の「パリ行ったことないの」には、妙齢の女性たちの私生活がさらっと描写されている。この小説で著者は、日本はやっぱり欧米「ではない」ということ、女の一生は平等に減っていく時間の上手な使い方「ではない」ということ、だけど脚光と注目には賞味期限と流行があって、なかなか個人の自由には「できない」ということを、足早に検査しようとしているみたいだ。

 

彼女の小説は撮影

 もちろん、その記述は「この国に生きる女たち」そのものじゃない、すべてじゃない。だけど僕たちが彼女たちの暮らしや気持ちを知りたくなったとき、ちょうどいいサイズ感の写真集になってくれる。しかもそこには「~に生きる女たち」の姿だけではなく、背景にある「この国」の景色もしっかり写り込んでいるのだ。山内マリコが写生しつつある情景たちは将来、あるいはオンラインで検索できる無数の画像たちよりも、この国で僕たちがいま、何を感じているかの良い記録になるかもしれない。

 都市と、郊外と、海外。前著『ここは退屈迎えに来て』には3つがどれも溶かされてあった。基調は、地方都市で生まれ育った、そろそろ若さを失いつつある男女の苦労譚と回想録だ。その上に、「地方のダレた空気や、ヤンキーとファンシーが幅を利かす郊外文化」が、フレーバーとして使われていた。その街にはマクドナルドがあり、洋楽が売られ、片言の日本語で話すロシア人やアメリカ人がいた。

 

ここは退屈迎えに来て

 

 だけどこの小説に描かれた情景はきれいだった。僕はそのことに癒やされた。きちんとお化粧された、すてきな「地方都市の寂しさ」が描かれていて、郊外の貧しさや愚かさ、粗っぽさは、優しい手つきで隠されていたからだ。

 

逃げ出せなかったアズミ・ハルコ

『アズミ・ハルコは行方不明』は、もっぱらその隠されていたものへ目を向けている。行方不明になった女性の肖像写真が、無名の凡人ではいたくない若者たちの気まぐれで、寂れた町の芸術祭を一瞬だけ埋めつくす物語だ。前作と同じように、地方社会の行き詰まり感を描いてはいる。だけど前作にくらべて、ラフで・カジュアルな文体が採用されている。小説の語り口(スタイル)と題材(オブジェ)を乖離させないためだろう。

 

アズミ・ハルコは行方不明

 

 この小説の登場人物たちは学歴がなく、定職に就けず、言葉づかいは乱雑で、内面は単純で、人生経験にも乏しくて、しばしば感情をむやみに爆発させる。

 舞台は、武装した女子高生集団”少女ギャング団”が、夜な夜な男たちを無差別に暴行する治安の悪い町だ。

 飢餓こそなけれ、貧しさと愚かさが生活の多くを占めていて、最先端の情報技術も、良質な現代芸術も、すっかり旬が過ぎた頃にしか普及しない地域。住民たちは、LINEで呼び合ってマクドナルドで雑談する。旧式のMackintoshで自社のホームページを更新する。ストレス解消のために自動車でドラッグストアへ通う。今さらFacebookを始めるかで迷う。

 その姿は、僕がかつて郊外で働いていたとき、顧客や同僚として付き合っていた人たちによく似ている。彼らは揃いもそろって勉強が苦手で、世間知らずで、文化の流行りに疎くて、貧しかった。

 彼らは週休2日・時給780円で毎日6時間働いた月収9万4千円で、TSUTAYAの旧作DVDを借りて『ONE PIECE』を全巻セットで買って和民で飲酒した翌朝に親の中古の軽自動車で出勤してきて、吉野家かマクドナルドかセブン・イレブンで買った昼食を食べながら、「介護より楽な仕事だから」なんて笑いながら、iPhone4でYoutubeの動画を再生するか、中古のPSPで中古の『モンスター・ハンター 3G』をプレイしていた。

 そういう人たちの”芸術活動”が、地場のコミュニティに何を生み出すかを描いた小説だ。

 主要人物の「ユキオ」と「学」は21歳で、学業や人付き合いに落ちこぼれて、才能も希望も持てずにいる。2人は同い年の売れないキャバクラ嬢「愛菜」と知り合って、覆面芸術家バンクシーに感化されて、グラフィティ・アート・ユニット「キルロイ」を結成する。 

 

映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』予告編

 

 はじめは興味本位で、やがてちょっとした功名心のために、その町で行方不明になった女性の肖像写真を、街中のシャッターへ、ガードレールへ、ドアへ、壁へとスプレーして回る。それがオンラインで話題になって、まとめサイトで取りあげられる。得意げな「謎解き」の餌食になる。ケータイの待ち受け画像にされる。やがて警官に目をつけられ、2人はビビって一時中断する。その噂を知った地元紙文化部の記者が取材に来る。地方アートフェスの主催者に気に入られる。

 行方不明になったその女性は、地元の小さな会社で、日常的なセクハラと理不尽な薄給に鬱屈しながら働いていた。だけど「どこまで行ってもなにも変わらない、なにも起きない、田舎の風景。その景色の中に、安曇春子は消えた。」(本文より)

 この小説には、うまく這い上がれなかった、逃げ出せなかった女たちの生活と意見が、たぶんほとんど「すっぴん」で描かれている。「この国に生きる女たち」のなかでも、世間からはありがちな不幸を生きているとしか思われていない女性たち。その「すっぴん」は、理想の夢物語に比べたら、洗練されたフィクションに比べたら、もちろん貧しいし、愚かにも見える。

というのも彼女たちは、ギャルでもママでもガールでもオタクでもニートでもメンヘラでもないからだ。だから「価値がない」とか「凡庸だ」とか「浅はかだ」とか見なされて、女性誌や社会科学や匿名ブログが形づくる「埋もれているリアルの声」からさえも埋もれてしまう。当人たちも、そこから逃げ出せない。

 

せめて、夢では救われてくれ

 その典型である「アズミ・ハルコ」の肖像写真は、芸術と呼ぶには軽はずみで、技術も未熟な作品制作に利用される。その成果は、ネット上でネタpostが投稿されて・拡散して・終息して・忘れられていくように、その町の至るところを駆け巡っていく。その「広がり」は、テレビと映画と雑誌と美術館と商店街のシャッターと捜索願のチラシが無節操に同居した、ぐずぐずのメディア環境を介して起きる。そしてその芸術は、安曇春子を救わない。

 この小説のなかで、芸術は、純情な芸術家志望たちが憧れるようには決して機能しない。悪ふざけが生み出した作品は、「街」のネットワークを介してヴァーチャルにもリアルにも広まるが、その「炎上」は被写体も作者も支持者も癒やさない。前ぶれもなく、ただ起きて、広がって、終わる。そしてその時、「行方不明になった女の子」の悲しみは、どこかへ置き去りにされてしまう。

『アズミ・ハルコは行方不明』は、安曇春子のとめどない寂しさを、田舎特有の狭くて・小さなソーシャル・ネットワークを通じて救う。それを肖像画の作者2人ではなく、彼らのそばにいた「愛菜」に目撃させる。「この国に生きる女たち」を素材にした芸術は、「この国に生きる女たち」を救わないかもしれないからだ。この気づきはひどく悲しい。

 だからこの小説には、素朴な祈りが書き込まれる。その主張は「悲しい目にあう女の子が減りますように」と要約できる。そしてその祈りは、駆け足の物語と、着崩した文体と、正直すぎるメッセージと、奇跡みたいな結末を用いて表現された。繰り返すが、小説の語り口(スタイル)と題材(オブジェ)を乖離させないためだろう。その語りには「貧しさ」が一面に散りばめられていて、僕には他人事に思えないほど痛切だった。

 物語の終わりに、「この国に生きる女たち」は、「何も変わらない、何も起きない田舎の風景」から逃げ出すための「仲間」と「武器」を手に入れる。だけどそのどちらもが、現実にはまず起こらない、夢みたいに素敵なワンシーンとして描かれる。反実仮想なのだ。

 この小説は、彼女たちの肖像画を描きながら、彼女たちに届くメッセージと、彼女たちを癒やす物語を作りあげようとする。なのにこの小説は、その描写と主張と物語を、現実には決して叶わない夢みたいなものとして物語るのだ。「きっと届かないね」というメッセージを、「絶対に届きますように」と祈りながら、「より届きやすい」パッケージで送信するのだ。そしてその時、行方不明になった「女の子の悲しみ」は、どこかへ置き去りにされてしまう。なぜなら小説とは、芸術とは、そのようにしか機能しないし、そのように機能すべきものだからである。この気づきはひどく悲しい。そんなふうに僕はこの小説を読んだ。読み終えて、悲しくて、泣いてしまいそうだった。

 そのとき僕はこの小説が、この小説自身が描いた、洗練された小説作法なんてろくすっぽ共有できない人たちに届いてほしいと思った。女による女のためのメッセージング・ツールとしてだけではなく、彼らの――かつての僕の、切実な貧しさを癒やす物語として、広く機能してほしいと思った。「だってそうでなきゃ、悲しすぎるでしょ?」(本文より)

 

 

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笠井康平

笠井康平

ねとぽよでは記者と編集のお手伝いをしています。

文芸誌「新古典派フィクションズ」の主宰で、ひっそり小説も書いています。

日本文学史とウェブカルチャーに詳しくなって、この国の歴史と文化の最適な記述法を編み出したい。